東 雑記帳 - やはり野におけ、クツワムシ

東 雑記帳 - やはり野におけ、クツワムシ

友達の母親の話。終戦間もない頃、関東のある県から別の県に嫁いできた。血縁もいないし、知っている人もいない。寂しい。孤独を紛らわすために、遠くの野原からキリギリスを捕ってきて、庭の草むらに放した。
チョンギース、チョンギースという鳴き声に慰められたという。
この話を聞いていたく感動した。万葉の時代からの日本人の心が生きていると思った。
つい数十年前までは、日本人は男も女も、老いも若きも、鳴く虫の声を聴き、季節を感じ、情緒を味わったものだった。

かつて、いつも朝、飼い犬に飲ませる豆乳を買いに行っていたパン屋のおやじさんは、「昭和五十年頃までは、駅の向こうに藪や草むらがあって、クツワムシが群れて鳴いていたから、捕ってきて、うちの前の草むらに放し、鳴き声を楽しんだものだよ」と言っていた。

クツワムシ(轡虫)は秋の鳴く虫のうち、体もいちばん大きく、鳴き声ももっとも大きい。
大きいというより、けたたましいというほうがふさわしい。なにしろ、轡は馬の口にかませ、手綱を付けて馬を制御する金具のこと。馬が走るときに、轡ががちゃがちゃ鳴る。クツワムシの鳴き声がその音に似ているということで、その名が付いたといわれる。
鳴く虫の王様で、というより、ぼくはそう思っていて、鳴く虫のなかで一番好きで、そのことは子供の頃から変わらない。

四国に毎年、クツワムシの状況を教えてくれる友人がいる。六、七年前だっただろうか、八月十日頃、その友達が夜に携帯から電話をしてきて、「今、○○川の堤防に来ているけど、クツワムシがもう鳴いている。聞こえる?」

残念ながら、聞こえなかった。

二、三日にしてまた電話がかかってきた。
「今日、クツワムシを七匹ほど捕ってきて、庭に放したけど、鳴き声を聞きながら寝るのはなんともいえない、いい気分ですねえ。今も鳴いているけど、聞こえません?」
鳴き声は電話に入らなかったが、うらやましい。虫すだく声を聞きながら眠るのは、とてもよいものである。

河原では十二、三匹鳴いており、そのうち七匹ほど捕ったという。
子供のとき、父親に連れられてここの堤防の草むらにクツワムシを捕りにいった頃に比べて、はるかに数が減っているともいっていた。

友達は七匹のうち五匹を家の前の畑兼庭の草むらに放った。二匹は虫かごに入れて買うことにしたのだが……。
次の日は一匹だったか二匹だったかが、敷地から五十メートルほど離れたところで鳴いていた。そしてその次の日には、その二匹はさらに五十メートルほど離れたあたりで鳴いていた。そして、そのまた次の日、ほかの何匹か敷地から離れていった。
こうして一週間経った頃には、一匹もいなくなったというのである。

さて、翌年の八月にはまた、彼が電話をしてきて、クツワムシレポートをしてくれたのだが、
「自分が去年たくさん捕ったのがいけなかったようで、今年ははるかに少ないですよ。わるいことをしたなあ、鳴いていたのをほとんど捕ったから。ぼくはもう捕りません」

やはり野におけ、クツワムシ、なのか。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。