東 雑記帳 - 第三のコース、やまなかくん
昭和三十年代前半、水泳競技は盛り上がっていた。いくつかある種目のうち、花形競技は自由形で、そして花形選手は山中毅さんだった。
山中選手は昭和三十一年(一九五六)のメルボリン五輪、自由形四百メートルと千五百メートルの二つでともに二位の銀メダルを獲得した。二つのレースとも金メダルに輝いたのはオーストラリアのマレー・コンラッズ選手だった。
三十四年(一九五九)、山中選手は、自由形二百メートルと四百メートルで世界新記録を出した。
翌三十五年(一九六〇)のローマオリンピック。山中選手は自由形四百メートルでまたもやローズ選手に破れ、二位銀メダルに終わった。このとき、千五百メートル自由形はオーストラリアのジョン・コンラッズ選手だった。コンラッズ選手は、四百メートルと八百メートルの自由形では銅メダルを獲得した。
自由形は、ローズ、山中、コンラッズの三つどもえの戦いだった。
山中選手は昭和三十五年に早稲田大学を卒業すると米国、南カリフォルニア大学に留学したが、ローズ選手、コンラッズ選手も同様に留学。同大学は黄金時代を迎えたという。
スタート間の選手紹介。
「第三のコース、やまなかくん」という、スタート前の選手紹介が今も頭に残っている。
当時は、ラジオからテレビに移っていった時代であるが、なぜかラジオの実況放送のほうが思い出深い。
「第三のコース、やまなかくん」
「第四のコース、ローズくん」
「第五のコース、コンラッズくん」
山中選手の名前とともに、ローズ選手とコンラッズ選手の名前も記憶に刻まれている。
ラジオということもあるし、三人それぞれ、どのような泳ぎ方をしているのか、そんなことは全然わからない。しかし、泳ぎ、競う姿は目に浮かぶのである。
やがて、妄想の頭の中でもレースは行われ、三人は速さを競うのである。
ときには、学校のノートにコースをつくり、選手たちを競わせたりした。さいころを振って、出た目だけ進むのだが、どういうわけか山中選手が優勝するのであった。
しかし、「第三コース」ではなく、「第三のコース」と「の」が入り、しかも「コォーース」と長く引っ張る。抑揚をつけているわけではないが、なんともいえず耳に心地よい。そして、選手の名前に「くん」をつける、やさしさ。あれは敬称だったのだろうか。
その後いつの間にか、「の」も「くん」も聞かなくなった。
今の選手紹介はどうなっているかと思い、ネットで調べたら、こんなふうになっていた。
「第三レーン やまだあきら ○○大学」
ぼくの耳に記憶がある「第三のレース、やまなかくん」は幻のコールなのか。
確かに昔は「の」が入っていたはずだと、いつからか、おりに触れて思い出し、気になっていた。
それに関して偶然わかったのは、何十年かぶりに檀一雄の小説『火宅の人』(新潮文庫)を読み直したときだった。
冒頭の章「微笑」は次の一文で始まっている。
「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛びこみました」
水泳競技のラジオ放送を真似たものだろう。
この場面の時代は昭和三十六年頃のようである。
この一文に気づいて、やはりこういう呼び方をしていたのだと確信したのだった。
「第三のコース、やまなかつよしくん、にっぽん」
日本で行われた国際大会では、このようにコールしていたに違いないだろう。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。