病気と歴史 - 太宰治の繊細な名作はADHD(注意欠陥・多動症)の賜だった

病気と歴史 - 太宰治の繊細な名作はADHD(注意欠陥・多動症)の賜だった

明治42(1909)年に青森県下有数の大地主の子に生まれた作家太宰治は、『人間失格』『ヴィヨンの妻』『津軽』『走れメロス』『晩年』『富嶽百景』など数多くの名作を世に出した。

感じやすく、傷つきやすい繊細な神経、自虐性、道化、鋭い観察眼と自己の露出によって彼の作品は光輝いている。その輝きは死後60年たった今も変わらず、若い人たちの心を惹きつけてやまない。太宰は鋭敏な感受性を持つゆえに人間関係、恋愛にと生きる悩みと格闘し、絶望の末に自死したと評される。

出自が津軽屈指の大地主であることが彼の生涯と芸術に決定的な影響を与えたといわれる。資産階級の子供であることに屈折した罪の意識を抱くようになった。旧制弘前高校時代に入学したが、睡眠薬カルチモンを服用して自殺を図ったが失敗した。昭和5(1930)年に東京帝大仏文科に進み、井伏鱒二に師事した。実家からの仕送りで豪奢な生活を送るが、それはデカダンスな生活であった。この年からマルキシズムに傾倒し、非合法運動に関係するようになった。

同年、青森の芸者、小山初代と結婚するが、その直前にバーの女給と心中を図り、女性だけが死に、太宰は生き残った。この事件をきっかけに非合法運動からは手を引いた。昭和8(1933)年に短編『列車』を『サンデー東奥』に発表し、また同人誌『海豹』に加わって『魚服記』した。10(1935)年に『逆行』を『文藝』に発表したが、これは同人誌以外の商業文藝雑誌に初めて載った作品で、芥川賞の候補になったが落選した。この年にもまた自殺しようとして未遂に終わっている。

またこの年、佐藤春夫に師事するようになった。佐藤は芥川賞の選考委員の一人であり、第1回の選考時も太宰を高く評価していたことから、太宰は大いに期待したが、このときも受賞はかなわなかった。この年からパビナール中毒が進行し治療に専念するなか、処女短編集『晩年』を刊行した。12年(1937)年、初代が津島家の親類の画学生と密通していることを、その画学生から打ち明けられ、初代と心中を図るが失敗し、太宰は初代と離別し、その後、石原美知子と再婚した。

麻薬中毒になってからの太宰は、錯乱した内面を『HUMAN LOST』などの前衛的な手法で表現したが、石原美知子と再婚するころから、平明な作風に変わっていった。14(1939)年の『富岳百景』『女生徒』などがそれにあたる。15(1940)年には友情の絆を描いた名短編『走れメロス』を発表した。18(1943)年には『右大臣実朝』、20(1945)年年には『御伽草子』など古典に題材をとった作品をものにするとともに、秀作『津軽』を発表した。

そして戦後、22(1947)年には『ヴィヨンの妻』や『斜陽』を発表した。後者は滅びゆく高貴なものへの挽歌といえ作品で、この小説で太宰は流行作家になった。23(1948)年3月から5月にかけて、太宰の代名詞ともいえる作品『人間失格』を執筆した。

しかし、同年6月に玉川上水において、愛人山崎富栄と入水して生命を絶った。太宰、五度目の自殺で、39年の生涯を終えたのだった。自殺の原因について。妻、美千子夫人にあてた遺書には、

「皆をくるしめ、こちらもくるしく、かんにんして被支度。子供は凡人にてもお叱りなさるまじく。(中略)あなたを、きらいになったから、死ぬのでは無いのです。小説を書くのが、いやになったからです。みんな、いやしい、欲張りばかり。井伏さんは悪人です」 と書かれていた。

実際、太宰は生涯、周囲の人たちを巻き込み、苦しめた。太宰作品の批評はたくさん書かれているが、その人間性は掴もうとして掴みがたい。

実母にネグレクト(育児放棄)されたことが、太宰の人間形成に大きな影を投げかけているともいわれる。太宰については、境界型人格障害と自己愛性人格障害を合併していたという説もある。また、猪瀬直樹氏の『ピカレスク』では、太宰が何度も心中をしたのは小説の題材にするためであり、だから自分は助からなければならなかった。最期の山崎富栄との心中は、手違いで自分も死んでしまったという、ピカレスクに仕立て上げられている。

太宰の性格、人間性について新しい説を示したのが富永國比古氏で、平成22(2010)年に「太宰治ADHD説」(三五館)を出版した。富永氏は産婦人科医で女性専門のクリニックを経営し、精神科医として著明な医師とともに同クリニックに「成人女性を対象とした発達障害外来」を開設している。

ADHD(注意欠陥・多動症障害)は発達障害に分類される病気の一つであり、発達障害は認知面、情緒面、行動面、運動面に発達の問題があり、日常生活に支障を来し、周囲の支援が必要な状態の総称である。

ADHDの人は、人の感情や心がわからないため、コミュニケーションが取れず、社会で普通の人間関係を築くのが困難になる。空気が読めないため、周りの人たちから理解が得られず、人間関係で浮き上がってしまう。

富永氏は太宰治の弟子、菊田義孝氏と知己を得て文学の世界へ誘われた。菊田氏から聞いた太宰のエピソードから、太宰は人を愛そうとして愛せなかったことに気づき、その重大性に着目したという。そして児童─思春期精神医学的病跡学の定石に従って、太宰の人生をひもとき、ADHDだったという結論を得た。

根拠として、幼少の頃から多動気味だったこと、空気が読めなかったこと、鋭いひらめきと鋭い洞察、優柔不断・不器用さ、こだわり、過集中と無関心、衝動性と不器用な人間関係を挙げている。そして、その原因として、幼少のころに女中や下男から受けた性的虐待のトラウマ(心的外傷)を指摘し、実母のネグレクト説は否定している。

また、同じ発達障害のアスペルガー症候群を伴っていたという見方も示している。富永氏は太宰について、「傷ついた癒し人」と評し、「だから、不器用にしか生きられない人の心を癒していくのだろう」と評している。

なお、文豪三島由起夫は太宰を嫌い、「太宰の悩みは朝のラジオ体操で解決する」といったという類いの話が残っている。

太宰がもう少し長生きしていれば、どんな傾向の作品を世に問うたのだろうか。いや、そういう期待は無用かもしれない。十二分過ぎるほどの名作を遺してくれているではないか。

太宰の心の軌跡をたどると、もはや生を続けていくのは困難だったのだろう。今日、ADHDの人は多いといわれ、ADHDなど発達障害の人たちを支援するネットワークが広がってきている。太宰がもし現代に生きていたら、もう少し精神的に楽に生きることができたかもしれない。いや、楽ではなかったから、すばらしい作品が出来上がったのかもしれないが……。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。