病気と歴史 - うつ病から脳出血を引き起こし、48歳の若さで死去。江戸幕府3大将軍家光
春日局の尽力で、家康より世継ぎとして認められる
徳川家3代将軍家光(在職1623~1651年)は、慶長9年7月(1604年6月)に2代将軍秀忠の次男として生まれ、家康と同じ竹千代という幼名を授けられた。長男の長丸が幼くして死んだため、実質的に長男であったが、乳母の福(のちの春日局)のもとで育てられた。
気が小さくて無口で、少しぼんやりしているように見え、引きこもりがちで、体も弱かった。
慶長11年(1606)、秀忠は3男国松を授かる。竹千代に比べて2歳下の弟国松は気転の利く子で、ために秀忠夫妻、特に母、崇特源院は国松を溺愛した。
そんな様子に、国松が世継ぎになるのではと心配した乳母の福や青山忠信らが尽力した結果、家康より、「竹千代が16歳になったら3代将軍の名を与える」との約束を得たといわれる。家光が生きた江戸時初期、長子相続制度は確立されていなかった。
竹千代から改名した家光は元和9年(1623)、徳川家3代将軍になったが、しばらくは父、秀忠が政務の実権を握っていた。しかし、寛永9年(1632)に秀忠が死去すると、家光は将軍の権威を絶対化し、諸法度、職制、参勤交代などの制度を整え、鎖国政策や農民統制政策などを推し進めて、徳川幕府の支配体制を確固たるものにした。
30代から、うつ病を繰り返す
若いころの家光は、踊りに熱中したり、かぶきの風俗にかぶれ、派手な格好に化粧をしていたりしたという。お忍びで市中に出るのが好きで、落語の目黒のサンマも、こうした行動が関係してつくられたといわれる。
健康については、寛永6年(1629)、26歳のときに痘瘡を患った。幸い治ったが、顔にひどいあばたが残った。25歳で軽い脚気を、26歳のときには虫気(腹痛を伴う病気)を、29歳で腫れ物を患ったが、いずれもたいしたことなく過ぎた。
ところが30代はじめに、気うつ(うつ病、気分情緒障害の病をわずらうようになった。表殿に出てこなくなり、ひたすら中奥に引きこもっていたと、『徳川実紀』(徳川幕府の公式記録)に記されている。
34歳のとき再び、うつ病と思われる症状が現れた。しかも次第に躁うつ状態を呈し、年をとるにつれてこの傾向が顕著になった。若いころ、夜中に市中を歩き回ったのも、そう状態でのことだったという見方もあるようだ。
弟、忠長を死に追い込んだことが、うつの原因なのか
このうつは、弟を死に追い込んだことが原因として影響していると考えられている。
弟の国松は、元服して忠長と名乗った。20歳のとき、駿河・遠江・甲斐・信濃の4か国の太守に任じられ、駿河大納言と称した。しかし、家光が後継者に決まってからは、屈託があったのだろう、何かと騒ぎを引き起こした。
さらには寛永5年(1628)頃から、行動が荒れ始め、同8年(1631)には家臣を手討ちにしたり、仕えていた少女を唐犬に食わせたりという異常な行動が目立ちはじめ、秀忠に甲州内で蟄居するように命じられた。翌年、秀忠没後、上州高崎に移されて幽閉され、領地を没収された。そして、寛永10年(1633)、家光によって、切腹させられたのだった。
48歳の若さで脳出血死
慶安元年(1648)になって、家光は時々頭痛に悩まされるようになった。頭痛は、高血圧からくるものだったらしい。同4年正月6日ごろから気分がすぐれなくなり、2月になって頭痛がひどくなり、床に伏した。歩行障害がみられた。しかし、4月はじめには、歩く姿を見せて、老臣たちを安心させた。
ところが同月19日、伊万里の焼き物を鑑賞しているうちに急に気分が悪くなり、翌20日、まだ48歳の若さで亡くなった。頭痛、歩行障害などの症状から、死因は高血圧が原因の脳出血とみられている。
家光がもう少し長生きをしていたら、歴史はどうなったのか。幕藩体制はいっそう強化されたと思われる。また、家光は日光東照宮の造営、江戸城の大改築などで散財した。長生きをしていれば、幕府は財政的に早く破産したかもしれないとの見方もあるようだ。
家光のうつ病や躁うつ病は、両親に寵愛されなかったことと関係しているのか。生まれつきの気質も関係していたのか。加えて、将軍という重責の立場にことも関係していたのだろうか。また、脳出血(脳卒中)とうつ病は関連している場合があるといわれる。脳出血があって、そのことがうつ状態を引き起こすことに関係することもあるらしいが、家光の場合も、さまざまな要因が重なっていたのだろうか。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。