病気と歴史 - 急死して天下統一の夢が断たれた信玄 平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した

病気と歴史 - 急死して天下統一の夢が断たれた信玄 平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した
日本人に好まれる、信玄との一騎打ち 

時代区分での室町時代が終焉したのが、足利家十五代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される元亀4年(1573)であった。しかし、15世紀末後半から戦乱が頻発し、室町幕府の権力は完全に失墜し、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
いわゆる戦国時代の到来である。大名たちは領国内の土地や人を一元支配する傾向を強め、合戦によって領土の拡張を図った。

戦国武将の中で、武田信玄はひときわ目立った存在である。「風林火山」を旗印にして、後に天下を取った織田信長や徳川家康などをあわやというところまで追いつめたこともある。騎馬軍団など、軍事の優秀さだけでなく、今日の民法に相当する「甲州法度」を定め、行政面でも力をふるった。
有名な上杉謙信との川中島の戦いは日本人に最も好まれる一騎打ちの代表的名場面の一つでもある。

廃嫡しようとした父信虎にたいし、家老らと謀り、隠退に追い込む

信玄は大永元年(1521)、現在の山梨県である甲斐の国で国守の武田信虎の長男として生まれた。長男であったが、父信虎は次男の信繁を重用し、信玄をうとんじて嫡子としての地位を廃しようとさえした。
ところが、信玄は武田家の家老らと謀り、逆に信虎を隠退に追いこんでしまった。信虎が駿河の今川義元のところに赴くように仕組み、今川の家老とも共謀して信虎が留守の間にクーデターを起こしたのである。

独裁者を倒すにはその留守の間がチャンスの一つである。わずか21歳の信玄は定石どおりに策を図り、水際だった采配をふるって奇襲に成功し、若くして実力でもって父に代って国守になった。

すさまじい領土拡張。信長との間に不穏な空気がただよう

信玄は、甲斐の国を支配しただけでなく、隣国の主である諏訪頼重を攻め滅ぼし、伊奈の城守長野業正を攻め、今の長野県である信濃の国を手に入れた。さらに、これらの領土を軸にして、北関東と東海にまで進出してきた。
すさまじい領土拡張であり、侵略速度であった。

永禄3年(1560)6月、今川義元が尾張の国桶狭間で織田信長に討たれ、信玄と信長の間には不穏な空気がただようようになっていた。信長は信玄といずれは対決することになると認識していたが、養女を信玄の次男勝頼に嫁がせるなど巧妙な策を用いて当分は信玄との戦いをあえて避けていた。このことからも信玄は信長も恐れるほどの男だったことが分る。

10回以上にわたる、謙信との川中島の合戦

しかも、信玄の敵は信長や家康だけではなかった。背後の越後の雄で、関東管領職である上杉謙信も信玄に迫っていた。信玄は父を追放して国を継いだが、謙信は兄である晴景を討って家督を相続している。いずれも親兄弟と争い、戦国、乱世の武将にふさわしい経歴ではある。

信玄と謙信は有名な川中島で10回以上にわたって戦った。川中島は長野市の千曲川と犀川とが合流する三角地帯である。いくたびの合戦のうちでも1516年の合戦が最大の激戦で、信玄と謙信の一騎打ちがあったとされる戦いである。この合戦では双方ともに多数の戦死者を出した。
ある屏風の絵では、馬に乗った謙信の打下ろす太刀を、信玄が床几から立ち上がって軍配で受け止めているように描かれている。別の絵では信玄は軍配ではなく、太刀で受け止めている。信玄は肩に傷を負ったともいわれるが、写真がなかった時代のことなので真実はどうだったかわからない。

家康・信長軍を打ち破り、いざ天下取りというそのときに病死

元亀3年(1572)の10月、信玄は将軍足利義昭の信長征伐に呼びかけに応じるかたちで信玄自ら大軍を率いて出兵した。同年12月には家康の居城である三河へ進攻し、三方ヶ原で家康・信長軍を打ち破った。
この間、信長は信玄と絶縁した。

翌年2月には徳川方が守る野田城を攻め落とし、さらに西へ下って天下を取ろうというとき、病がつのり甲府に戻ることとなり、その途中で信州の伊奈で息を引き取った。

信玄の病気については、当時労咳と呼ばれていた肺結核説や消化器がん説、日本住血吸虫説などさまざまな仮説がある。かつては肺結核(労咳)説が有力だったようだが、今では消化器がん説が定説となっている。
その根拠となっているのが、『甲陽軍艦』に侍医の板坂法師の言葉として、「永禄十一年(一五六八)十二月、四十七歳の信玄は膈の病いにかかった」という記述が見られることである。甲陽軍艦は武田家の戦略・戦術を記した軍学書で、江戸時代に成立した。膈は元々は胸腹部を表す言葉で、のちにその部位に起こる病気を総称するようになった。
病跡学の専門家である篠田達明氏や若林利光氏、中島陽一郎氏の各氏は信玄の死因について膈説を支持している。

信玄の遺言を破り、戦を仕掛けて信長に敗れた勝頼。甲斐武田氏は滅んだ

信玄は亡くなるとき、次男勝頼を呼び寄せ、3年間は喪を秘するよう遺言した。「3年間そのことを隠し、3年目に御死骸を、仰せになられたように弔い信玄公の御遺言にそった」と甲陽軍艦にある。遺言は概略、次のような内容だった。

「いつの日にか瀬田に風林火山の旗を立てよ。そのためにはなお3年わが喪を秘せよ、信玄ありと見るかぎり甲州の地に手をかける敵は1人もいない。信玄ありと見せかけるため、影武者を使い、書状をもって下知するときは、かねて用意してあるわが花押ある紙を使え」

みだりに戦を仕掛けるなということだったが、信玄の実質的な後継者となった武田勝頼は、時期尚早と言って反対する重臣たちを押し切り、翌年には美濃に出陣し、織田方の諸城を次々と攻略した。
しかし、信玄の葬儀がとり行われた天正3年(1575)、葬儀の後の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗した。
上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟などで領国の再建を図ったものの、織田信長の本格的侵攻(武田征伐)によって天正10年(1582)3月11日、勝頼は嫡男信勝とともに天目山で自害した。
これにより平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した。

信玄は天下をまさに取ろうかというとき、病に斃れた。信玄にとってはまことに残念なことであり、逆に家康と信長にとっては幸運以外の何物でもなかった。人間の力だけではどうしようもない不思議な人の運というものを感ぜざるを得ない。
もし信玄が10年長く生きたら、徳川、織田を再度討ち破り天下を統一した可能性も大いにある。とすれば、織田信長の天下統一はなかっただろう。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。