病気と歴史 - 発疹チフスに敗北したナポレオンのロシア遠征

病気と歴史 - 発疹チフスに敗北したナポレオンのロシア遠征
古代ギリシャ。アテネを没落へ向かわせた発疹チフス 

発疹チフスは、日本では法定伝染病に指定されている疫病で、コロモジラミというシラミの1種の昆虫が病原菌のリケッチアを媒介する。さまざまなリケッチア症を引き起こすが、そのなかでいちばん手強いのが発疹チフスである。
リケッチアは細菌よりも小さくて、ウイルスよりも大きな微生物で、ウイルスと同じように生きた細胞の中でしか増殖することができない。人間にとって怖い病原体で、発疹チフスにかかると、頭痛や微熱などの症状で始まり、数日後に発疹が現われ、やがて死が訪れる。

発疹チフスは古くから存在していた。紀元前5世紀の古代ギリシャの時代、アテネはペリクレスの指導のもと、最盛期を迎えていた。紀元前431年、アテネとスパルタの間にペロポネソス戦争が勃発したが、この戦争の最中の紀元前430年、アテネに疫病が発生した。
この疫病はアテネを敗北へと向かわせた。アテネの勇将ペリクレスもこの疫病で死んでしまい、ペリクレスを失ったアテネは次々とスパルタに破られ、ついに破れた。そして、アテネはこののち、落日へと向かっていったのだった。

古代ギリシャの歴史家ツキディデスがペロポネソス戦争についてまとめた『戦史』や、古代ギリシャの三大悲劇詩人の1人、ソポクレスの戯曲『オイディプス王』にも疫病が描かれている。この病気はのちに「アテネの疫病」と呼ばれるようになったが、今日ではこの疫病が発疹チフスだったという説が有力である。
時代が下って19世紀、発疹チフスはヨーロッパにおける戦場で戦争の勝敗まで決めてしまうほど猛威をふるうことになる。

45万人を率いての、ナポレオンのロシア遠征

コルシカ島の小貴族出身のナポレオン・ボナパルトは、フランス革命終末期に反革命派の鎮圧に功を上げ、さらに1799年、ブリュメール18日のクーデターで執政政府を樹立し、第1執政に就任した。ローマ教皇との宗教密約によって反対派を圧伏し、1802年にイギリスとアミアン条約を結び、終身執政に昇格した。
新憲法を制定、ナポレオン法典の編纂し、フランス銀行の設立などを行ったのち、1804年に皇帝となった。
フランス産業の復興を目指して中欧を制し、1806年に大陸封鎖令を公布。翌07年にティルジット条約を締結し、08年にスペインを占領し、全盛期を迎えた。しかし、スペインのゲリラに悩まされた。
こうしたなか、ナポレオンは、ロシア制圧を決心し、1812年、45万人の大軍を率いて、ロシア遠征に向かった。

途中のポーランドで発疹チフスが蔓延。ナポレオン軍に襲いかかる

同年6月、遠征軍はポーランドとプロシア国境のニーメン川西岸に駐屯したが、ポーランドは衛生状態が悪く、赤痢や腸チフスが蔓延していた。遠征軍はたちまちそれらの疫病に感染し、モスクワへの行軍中、赤痢や腸チフスの患者が多発したが、それは序章に過ぎなかった。ナポレオン軍と発疹チフスのことに関しては、『歴史を変えた病』(フレデリック・Fカートライト、法政大学出版局)に詳しく紹介されている。
赤痢や腸チフスは序章であれば、さて疫病の本編とは何だったのか。それが発疹チフスだった。この疫病は長年、ポーランドとロシアで風土病として根を張っていた。その風土病が、ナポレオン軍の兵士たちに襲いかかったのだった。

同年7月のオストロヴナの戦いでは、8万人以上が発疹チフスによって死亡あるいは戦闘不能状態になった。進攻してくるナポレオン軍に対して、ロシア軍は撤退作戦をとったが、このことがまたナポレオン軍を疫病まみれにしてしまうのであった。
発疹チフスの流行のうえに食糧も不足し、兵士たちは疲弊しきっていた。そのため一時進軍を停止したが、8月24日に再び進軍を始めた。しかし兵士はばたばたと斃れていき、2週間もたたないうち、残った兵士は13万人だけとなった。
9月7日、戦闘が開始され、ナポレオン軍は3万人、ロシア軍は5万人の兵士が命を落とした。戦闘のかたちの上ではナポレオン軍の勝利であったが、被害、損害は大きく、兵士たちはさらに疲弊した。

モスクワ入城も、奇襲を受け撤退。残った兵士は4万人になっていた

ロシア軍は撤退したが、それは巧みな作戦であった。
こうして同年9月、ナポレオン軍は抵抗されることなくモスクワに入城したが、待っていたのは、勝利の美酒でなく、発疹チフスであった。というより、ナポレオン軍とともに発疹チフスもモスクワへ入城したのだった。
このとき、ナポレオン軍の兵士は9万人に減っていた。バラ色の発疹と発熱を呈し死亡する兵士が続出し、兵士の数はさらに減った。
ナポレオンは和平を期待しており、ロシア軍もそれに応じるかのような対応をしていたが、それはナポレオン欺くためのものであった。
10月8日、ロシア軍が奇襲に出た。小規模の戦闘であったが、ナポレオン軍にとって大きな打撃で、ナポレオン軍は19日に撤退を始めた。最後の兵士がドイツ領にたどりついたとき、兵士は4万人だけとなっていた。

ロシアの罠にはまったナポレオンは発疹チフスで敗北した

「ロシアがモスクワを明け渡したのは、ロシアの厳寒「冬将軍」の到来を待って、ナポレオン軍を敗北に追い込む作戦だった」と書かれている歴史の教科書もある。しかし、真実は単純で、ナポレオンは発疹チフスに負けたのである。ロシアの策略によって、北へ北へとおびき寄せられたが、それは発疹チフスと二人連れの進軍であった。
この敗北によって英雄ナポレオンは失墜しセントヘレナ島に流され、そこで亡くなった。
発疹チフスは不潔、不衛生の病気である。
予防、蔓延防止のためにはシラミ対策が必要なことはナポレオンも彼の軍医もよく理解していたという。ロシア侵攻の途中、ポーランドで発疹チフス感染者が現れたとき、早急に対策を講じていたとしたら、戦局はおそらく変わっていたはずである。ロシア制圧に成功していれば、失脚することはなく、さらな巨大、強力な大ナポレオン帝国を築いたかもしれない。
ちなみに、1835年から1856年にかけて、ロシアとイギリス、フランス、トルコの間で起きたクリミア戦争にも発疹チフスが主役として登場する。ロシアの要塞セバストポールに発生した発疹チフスはロシアを敗北に追い込んだ。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。