病気と歴史 - 脳卒中で倒れたのちも、狂犬病ワクチンを開発した細菌学者・パスツール
26歳で大学の教授に
ルイ・パスツールは、1822年12月27日、フランス東部の町で革なめし職人の息子として生まれた。一家はパスツールが4歳のときアルボアに移り住み、ここでパスツールは幼年時代を過ごした。
その後、パリの高等師範学校で物理学と化学を学び、その研究心は教授たちに高く評価されるようになった。
パスツールが化学を選んだ動機は、パリのエコール・ノルマールで受けた化学の講義に感銘したためだった。講義をしたのはフランスの化学界の頂点に立っていたジャン=バティスト・デュマで、パスツールにとって生涯の恩人となった。
パスツールは20歳で結晶学についての論文を発表し、物理化学者ビオから称賛され、その名は科学界で知られるようになった。1846年に物理学の助教授になったが、ジャン=バティスト・ビオ(物理学者・天文学者・数学者。1774~1862年)はその推薦にあたって、「パスツールは深く考え、創造する精神に恵まれており、観察し立証する人物に特有の洞察力を持っている」と述べている。
その年の終わり頃から結晶に関する興味を深め、26歳の若さで酒石酸に異性体があるという偉大な発見をし、同じ年、1849年にストラスプール大学の教授となった。この年にはまた、ストラスプール大学の学長の娘と出会い結婚した。
微生物の力によって発酵が行われることを発見
1854年、皇帝ナポレオン3世の勅令によって設立されたばかりの化学教授兼物理学部長に就任した。リール大学の学長となった。
物理学に力を注いでいるように見えたパスツールだが、リール大学に赴任してから関心は微生物へと大きく傾いていった。そのきっかけは、大学の研究室にアルコールの醸造業者が訪ねてきたことだった。
パスツールは、工場で起きたトラブルについて相談を受けたが、そのトラブルとはアルコール醸造の過程での腐敗だった。醸造業者はテンサイを原料にアルコールを醸造するが、アルコールにならず腐敗する樽がある。
パスツールは、アルコールができない樽から取り出した液体を自宅に持ち帰り、顕微鏡で観察した。すると、そこには酵母菌と違う形をした微生物がいるではないか。腐敗菌の発見だった。これが端緒となって、発酵と腐敗の研究を始めた。つまり、ブドウ酒や食酢、ビールなどの発酵の研究でもあるが、それは友人を救うためだけでなく、フランスの繁栄のために尽くすという心意気でもあったという。
研究を続けたパスツールは、1857年には、微生物の働きによって発酵が行われるという理論を打ち立てた。
開発した殺菌法で術後の敗血症が激減
続いてパスツールは、ブドウ酒が微生物によって酸っぱくなることを突きとめ、ブドウ酒を加熱することで微生物を殺す「パスツーリゼイション」という殺菌法を開発した。これによって、フランスのブドウ酒産業は救われた。
1861年には有名な「ハクチョウの首型フラスコ」を考案して、生物学者の間で論争されてきた生命の自然発生説を否定した。1865年には、恩師デューマからカイコの「微粒子病」について相談されたパスツールは、カイコの伝染病を退治し、養蚕業を救った。この時、パスツールは『昆虫記』のファーブルにも相談している。
パスツールの活躍は、イギリスのグラスゴーの外科医リスター(1827~1912年)の耳にも入った。リスターは歴史にその名が残る、当代随一のスター医師であった。当時の医学では、手足切断後の45~50%の患者は敗血症のために死んでいた。
リスターはパスツールの研究結果を外科手術に応用した。外科手術後に起こる敗血症は、環境にいる細菌が人体に入って増殖する腐敗の一種と考え、それを防ぐ手段、つまり石炭酸で手術器具、ガーゼなどを殺菌消毒する方法を考案した。
1865年のことだった。こうすれば、傷口の化膿が防げ、敗血症も未然に予防できる。この対策を講じることによって、敗血症による死亡率を15%まで下げることができたのだった。
その成果は1867年に医学専門誌『ランセット』に発表された。この年、パスツールはソルボンヌ大学の教授に就任した。
脳出血で倒れたのちも、倒れる前により業績を上げる
ところが翌年の1868年、パスツールは脳出血で倒れた。幸い命はとりとめたものの後遺症で左半身不随になった。けれど、脳は大丈夫だった。そして、その後、倒れる以前よりもすばらしい業績を上げた。
1879年には、ニワトリコレラ菌の弱毒株を注射したニワトリに、ニワトリコレラ菌の強毒株を打っても、ニワトリがコレラにならないことを証明した。免疫の発見であった。
1881年には、弱毒炭疸菌で免疫したヒツジに強毒炭疸菌を注射するという公開実験を行い、見事に成功した。ニワトリコレラ菌と炭疸菌の研究を発表し、こうした予防法をワクチンと呼ぶことを提唱した。1882年にはフランス学士院会員になった。
1885年には、狂犬にかまれたジョセフ少年に狂犬病ワクチンを接種し、命を救った。成人したジョセフ少年がパスツール研究所の守衛となり、1939年にナチスドイツ軍がパリに侵入した時、最後までパスツール研究所を守ったのは有名な話である。
1888年には、世界中から集った寄付金によってパスツール研究所が完成した。全世界の人々から尊敬され、近代医学の進歩に大きな貢献をしたパスツールは、1895年9月28日、73歳の生涯を静かに終えた。
思えば46歳のパスツールが脳出血で倒れたとき、脳に障害が残らなかったことは幸いだった。
パスツールは、最期は循環器の障害と尿毒症が見られたといわれる。46歳のときに脳出血で倒れたくらいだから、若い頃から血圧が高かったのかもしれない。そして、尿毒症も高血圧に由来するものと思われるし、あるいは腎臓が悪かったから血圧が高かったとも考えられる。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。