病気と歴史 - 西洋の新大陸征服に大きな役割を果たしたのは、今は絶滅した天然痘だった(2)

病気と歴史 - 西洋の新大陸征服に大きな役割を果たしたのは、今は絶滅した天然痘だった
スペイン軍によって滅亡したインカ帝国

ヨーロッパ人によるアメリカ新大陸侵略の歴史のもっとも劇的な瞬間は、スペイン人によるインカ帝国滅亡であつた。スペインの武力の前になすすべもなくインカの人々は殺され、滅亡させられたと歴史は伝えてきたが、ほんとうだったのか。史実は、インカ帝国はスペイン人が持ち込んだ疫病によって滅亡したのだった。

インカ帝国の起源は不明であるが、伝説によると、13世紀頃、クスコ盆地に侵入したインカ族が、先住民族を征服してインカ帝国を建設したといわれる。9代皇帝パチャクティは、さまざまな改革を行なうと同時に、チチカカ湖周辺のルパカ族を征服し、インカ帝国の基礎をつくった。
パチャクティ皇帝の子トゥパク・インカ・ウパキンの代になると、ペルーまで攻め込んでチムー王国を滅ぼし、さらにエクアドル、チリ、アルゼンチンを次々に征服した。

15世紀末、皇帝ワイナ・カパックはエクアドルの開発を進めた。その結果、クスコとエクアドルのキトという2つの地域で主導権争いが起き、両者の対立が激化し、1525年にワイナ・カパックが死ぬと対立が決定的になった。1531年に起きた内乱を制し13代目の皇帝になったのが、クスコの支配者だったアタワルパであった。

アメリカ大陸最大のもっとも進化した国だったインカ帝国

当時、インカ帝国はアメリカ大陸で最大であり、かつ、もっとも進歩した国家であった。
アタワルパはその一大帝国の絶対的君主として権力を完全に掌握したのだったが、わずかその1年後の1532年に突然不幸に見舞われた。

アタワルパがインカ帝国の内乱を平定しつつあった1531年、スペイン人ピサロは185人の兵士と37頭の馬とともにパナマを出港した。スペイン国王カルロス5世から征服の権利を認められての旅立ちであった。エクアドルに上陸したピサロは、アタワルパを求めて陸路を南に向って進軍を開始した。

1532年11月16日、ピサロはアタワルパの大本営があるカハマルカという町に入り、キリスト教布教のための平和使節と称し、アタワルパに面会を求めた。ところが翌日、アタワルパにキリスト教への改宗を要求。これにアタワルパが怒り、聖書の一部を破り捨てたところ、広場に隠れていたピサロの兵がいっせいに射撃を開始した。
ピサロはアタワルパを捕虜にして、アタワルパの身代金として莫大な金銀を手にしたが、アタワルパを解放せず、1533年7月26日に処刑した。

侵略スペインが皇帝を処刑し、新しい首都を建設

そして、同年11月15日にインカ帝国の首都クスコに入城し、1535年1月に新しい首都リマを建設した。クスコに入城したピサロは、インカの民の反乱を抑えるため、傀儡皇帝を立てたが、インカの反乱は起きた。反乱は続いたが、1572年にスペイン軍によって傀儡皇帝が処刑され、インカ皇統は途絶え、ここにインカ帝国は完全に消滅した。

以上のようにスペインの歴史書に書かれているが、それが真実なら、インカ帝国はわずか185人37頭の馬によって滅亡させられてしまったことになる。そんなことが可能だったのか。
ピサロがまず騙し討ちをし、アタワルパを捕らえたことが勝利の鍵となったといわれるが、アタワルパには8万人の兵士がいたのである。
鉄砲があったという意見もあるかも知れないが、当時の火縄銃では弾を撃つのに時間がかかりすぎて、とても秘密兵器にはならない。織田信長が長篠の戦いにおいて、三段構えの火縄銃攻撃で武田軍を殲滅するのは50年も後のことである。

実は、インカ帝国滅亡にも天然痘が関係していた。『銃・病原菌・鉄(上)』(シャレド・ダイアモンド、草思社)にそのいきさつが詳しく解き明かされている。

インカ帝国滅亡の真の原因は天然痘だった

それによると、ピサロがインカ帝国へ攻め入った時、インカは内戦が起きていた。その内戦の原因は、パナマとコロンビアに移住してきたスペイン人が持ち込んだ天然痘にあった。1526年にインカ帝国ワイナ・カパックや廷臣たちの大半もそれがもとで死んでいる。
後継者に指名されたニナン・クヨチもまたすぐに天然痘で死んでしまったため、王位を巡る争いがアタワルパと異母兄弟のワスカルの間で起き、それが内戦に発展したのだった。

この対戦にアタワルパが勝利したわけであるが、インカ帝国はこの段階では分裂し、全土は混沌としていた。ピサロがアタワルパと遭遇したのはそういう状況下で、ピサロはそれを察知して利用したのだった。
つまり、天然痘の流行がなかったら、インカ帝国の分裂は起こらず、したがって、スペイン側は一致団結したインカ軍を相手にしなければならなかったはずである。

当時、アメリカ大陸には天然痘ウイルスが存在しなかった。ピサロが天然痘ウイルスを持ち込んだために、天然痘に免疫のないインカ帝国の人たちの間で天然痘が大流行したのである。
何十人かのスペイン兵が何千人ものインカのインディオを殺したことは伝えられているが、その数字で国が滅亡したとは考えにくい。また、奴隷として過酷な労働を強いられ、死者も出たが、これによってインカの民が絶滅したと考えるのは無理があるだろう。
インカ帝国の滅亡は天然痘のせいだというのが、いまや歴史家の常識である。

それとも、インカの民は黄金とともに忽然と姿を消したのか

ところが、この天然痘説には異論もあるようだ。
スペイン人がインカを侵略したとき、人口は約1000万あった。それが40年後の1571年にスペイン人が行った調査では、10分の1の約100万にまで激減していた。その大半が天然痘による死だったのか。実は、ピサロがアタワルパを殺害したことがインカの民に伝わるや、彼らは黄金とともに忽然と姿を消したという説もある。
ちなみに、これより先にスペイン軍によって滅亡させられたアステカ帝国も、コルテス将軍が都を支配下におさめたときには、すでに莫大な財宝はすでにすっかり姿を消していたという話もある。
何が真実かはわからないが、歴史ミステリー好きには、こたえられない謎には違いないだろう。

(続く)

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。