【これどこからの旅ですか】- 現代に使いたい日本人の感情、情緒あふれる言葉
この言葉は幸田文さんの『幸田文 旅の手帖』(幸田文著・青木玉編 平凡社)収載の『旅』と題した随筆に出てくる。
「むかし常識として、家庭内で教えられたことでいまもう通用しなくなっているものはたくさんある。何もみな世につれて、変化するのは当然なのだし、昔が今よりいいわけでもないが、時によると、ふと困ったり、また名残おしく思うこともある」と始まり、七行おいて、次の一文がある。
八百屋さんでも、昔を思うことがある。俗にはしりといわれる、標準より早い初物を見ると、「これどこからの旅ですか」ときいたものなのである。当時は伊豆、静岡あたりからの出荷ものでも「旅」であった。地のものにさきがけて来てくれた道中を、いたわり迎えて、どこからの旅、とたずねる言いかたはやさしい。(後略)
この随筆が書かれたのは、昭和五十二年(一九七七)、幸田文さん七十二歳のときである。
今年(令和四年)二月九日の読売新聞夕刊一面の『よみうり寸評』で、この言葉を取り上げていたが、それはアサリの産地偽装が発覚したことに絡んでのことであった。どこから旅してきたのか、中国からなのだが、出発地(産地)を偽り、熊本からとなっていた。
テレビが立て続けにこの偽装問題を取り上げてから、以前は熊本産としていた表示が中国産に変わった。
日本人的な感性が感じられるこの言葉、使ってみたいが、スーパーマーケットでは使えない。
というより、使う必要がない。産地はすべてパッケージに表示されているし、丸ごと一匹の魚には「長崎産真鰺」などと書いた札が立っている。
魚屋さんや八百屋さんやなら、会話が成り立つのではないか。
「このタコはどこから旅してきましたか」「モーリシャスです」
「このサバはどこから旅してきましたか」
「ノルウェーですよ。はるばる旅してきたんですよ。買ってやってください」
このような会話ができるが、いちばんしっくり来るのは、にぎりの寿司屋だろう。
「今日はどんなネタがありますか」
「ミンククジラのいいのが入りましてね。にぎりでいけますよ」
「ほおー、それ、どこからの旅ですか」
「南氷洋からはるばる旅してきましたよ」
「へえー、南氷洋から直行で」
「いえいえ、太地で陸に上がって、そこからは陸路を旅してきましたよ」
こんな感じの会話が楽しめるとよいのではないだろうか。
なお、個人的には、「これ、どこから旅してきましたか」のほうが、しっくりくるように思う。
ただし、アサリの産地偽装が問題になった今、貝類の旅路については聞かないほうが無難かもしれない。
ちなみに、「旅」であって、「旅行」ではない。旅は和語、旅行は漢語であり、「旅行」では趣をそがれるし、おさまりも悪い。
「よみうり寸評」には、哲学者の鶴見俊輔さんが、ある座談会で語っているという、次の話も載っていた。
「初鰹を食べると黒潮に載ってきた全風景をそこから想像するということが、日本人にはできた」
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。