東 雑記帳 - エコ箸は使いたくない
大衆的な飲食店で割り箸でない箸がよく使われるようになったのは、いつ頃からか。
天然資源保護、エコのムーブメントが起きた頃からだろうか。割り箸は資源の浪費であるとの考え方が生まれてきた。そして、その流れのなかで、エコ意識が高い人たちに、自分の箸(マイ箸と言われるようになった)を持ち歩き、飲食店で使用するスタイルが見られるようになった。
今から十五、十六年前からだろうか。当時、何かの打ち上げの会で会食した店は、あちらこちらに、「箸は殺菌消毒をしており清潔です」との張り紙がしてあった。
割り箸ではない箸を初めて見かけたのは牛丼の𠮷野家だったと思うが、その箸は木製だった。しかし、エコ箸は木製ではなく、何かの金属製で、それは日本人には馴染みのないものだった。
ところが、割り箸は資源の無駄遣いではない。間伐材や廃材を使用するから、資源の有効利用であるし、そこには仕事も発生している。それがわかって以後も、エコ意識の高い人たちはマイ箸を持ち歩いたのだろうか。そういう人もいたように記憶している。
さて、自分ごとであるが、エコ意識云々は別にして、エコ箸は使いたくない。なぜなら、いくら消毒滅菌しようと、誰が使ったかわからない箸は使いたくないからである。
そう言うと、「皿も茶碗も汁椀もビールのグラスや盃だって皆、いろんな人が使うのに、箸だけ気にしてもしようがないじゃない」と言う声が聞こえてきそうである。
それはそうであるが、日本人の家庭において、さまざまな食器類のうちで、箸と茶碗(ごはん茶碗)は特別なもので、銘々が自分の箸と茶碗を持ち、その箸と茶碗で御飯を食べる。
このような仕来りで育ったものだから、特に箸は個人に帰属するという意識があり、それは今も抜けない。だから、十年以上前から、箸箱に入れて箸を持ち歩いているが、これが案外使いにくいのである。
二三人連れだって居酒屋へ行くと、箸はエコ箸。連れの者がまったく抵抗なくエコ箸を使い始めるのを見ると、自分の箸を出すわけにはいかない。出そうかなと思っているところへ、連れの一人がエコ箸を差し出してくれることもある。そうすると、自分はこれを使います、とは言い出せず、ありがとうなどとつぶやき、有り難そうに受け取ったりする。
ある大阪人の親しい年上の友人は、立ち食いのうどんの店に行って、エコ箸しかないとわかると必ず、「割り箸、おくれ」と言って、割り箸を出してもらっていた。「勇気がありますねえ、と言うと、「なんでや、人が使ったものを使うなんて、いややないか。どこの店も必ず割り箸を置いてる」と、自分の流儀を貫いていた。
「ない」と言われても、「そんなはずあらへんやろ。出せや」と迫ったら、奥から出してくる、とも言っていた。
この誰が使ったかわからない箸は汚いという感覚が、自分には確かにある。不浄の感覚であり、これは殺菌云々の衛生観念とは違うので、始末が悪いかもしれない。
情報として付け加えると、下記は料理研究家の土井善晴さんの言葉。
「考古学の世界に『属人器』という言葉があります。日本のように、茶碗や箸がそれぞれの個人に決まっているというものです。家族でも他の人のものを使わない。これは自分の家の中に存在する個性です。
しかし、日本ではそれを組織や団体の中では実現できない。日本人は家の中でしか、個人として認められない。日本人にとって自己を主張するのも、甘えるのも家しかないのです」
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。