東 雑記帳 - 二酸化炭素

東 雑記帳 - 二酸化炭素

小学校の中頃から、たまにではあるが、母親に連れられてデパートに行くことがあった。
育った地方都市には唯一、関西系のデパートがあった。

洋服を買ってもらったのか。今も記憶に残る洋服はない。母親の買い物に付き合わされたのか。楽しみは大食堂でジュースなどを飲むことだった。

しかし、品定めをする母親の後ろをのろのろついて歩いていると必ず、一時間もしないうちに気分が悪くなってくる。なんとも言えない、けだるく、えらいのである。内臓がけだるい感じもする。吐き気をもよおすまて゛にはいかないが。
西の言葉「えらい」は、「しんどい」ということである。

「ちょっと休もうよ」と言うが、母親はなかなか応じないので、何度もくり返し催促することになる。
結局は、母親が音を上げて大食堂へ行くのだが、母親は、「しげよしと来ると、すぐ、えらいえらいというので、いや」と、こぼしていた。ゆっくり品物を見ることもできないというのである。
父や姉も一緒に行くことがあったが、自分のようにえらくなることはないようだった。

デパートに行くと、気分が悪くなる、えらいは、その後も変わらなかった。大人になっても変わらなかったのだろうが、さっさと見たいものを見て、買いたい物を買うようになった。
最低限の目的を果たせば、他は次の機会にすればよい、と自然に考えるようになった。

それにしても、なぜ、気分が悪くなるのか。それは人いきれにやられるからだった。
「人いきれ(人熱れ)」という言葉を知ったのは何歳の頃だったろうか。わかるわけがない。いまさらながらではあるが、辞書を引くと、「人が多く集まって、体熱やにおいでむんむんすること」とある。
さらに他の本にあたると、「人いきれで胸が悪くなる」という表現を見つけたが、そうそう、こういう言い方があったと思い出した。

しかし、辞書の説明ではいまひとつ、判然としない。
その正体が何なのかをはっきり知ったのは、実は新型コロナウイルス騒動が起きてからだった。マスクをすると、自分が吐いた二酸化炭素を吸うことになる。

その昔、デパートに行くと気分が悪くなるのは、二酸化炭素のためだった。今頃になってわかるとは、なんとお馬鹿なのか、おめでたいのか。

そんなことを思っているとき、武田百合子さんのエッセイ『日日雑記』(中公文庫)を読んでいると、次の一文にあたった。
デパートへ華道某流家元の作品展を観に行ったときのことである。

これを観て感想を述べるように、とタダの切符を貰ったので。金糸銀糸でぼかした雲や山の模様の帯を、クッションをあてがったように背負った和服姿の中高年婦人が充満している。しゃべり声、笑い声が充満している。脂粉の香りと二酸化炭素が充満している。
家元の作品のまわりに群がりたかって動こうとしないので、近寄って観ようとしても観られない。だから感想なんか湧かないのだった。

書かれたのは昭和の終わり頃と思われる。

現代では、コロナ対策も相まって、デパートも大型ショッピングセンターも換気を怠りなく行っているはずだから、二酸化炭素充満ということはあり得ないのではないだろうか。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。