東 雑記帳 - 使い勝手がよく繁用される言葉「可能性」
現代の言葉で非常に使い勝手がよく、繁用されているものに「だいじょうぶ」があるが、
「可能性」という言葉も同様に繁用されている。
──明日は雪になる可能性があります。
──犯人が逃亡する可能性があります。
可能性という言葉を使わないなら、どのように言えるのか。
──明日は雪になるかもしれません。
──犯人が逃亡するおそれがあります。
こんな感じだろうか。
そもそも、いつ頃から、かくも、「可能性」という言葉が繁用されるようになったのだろうか。私見では、今から十五年、二十年前には、医師がこの言葉を患者に使うようになっていたと思う。
当時、全国紙の読者投稿欄にこの言葉に関する投書が掲載されたのを二度見たことを記憶している。
一つは、下記のような文面だった。
医師に、「このまま進むと糖尿病になる可能性があります」と言われ、糖尿病になることが何か良いことのように感じられた。
もう一つは──。
医師に「このまま放置しておいたら、胃癌に癌に進行する可能性がありますよ」と言われ、思わず、
「先生、『可能性がある』って、私が癌になるのがめでたいことのように聞こえますが……」と返したところ、医師が。
「いや、いや、そうではなく、医学における『可能性』は一定の確率があるという意味です」と、弁解するように説明した。
二つとも、医師が用いた「可能性」という言葉に違和感を持ったことがわかるし、そのことを投書で訴えたかったのだろう。
「可能性」は本来、良いことに使う言葉だった。
辞書を引くと、最初に「物事が実現できる見込み」とあり、「成功の可能性が高い」との用例が示してある。
二番目に、「事実がそうである見込み」で、用例「生存している可能性もある」
三番目に、「潜在的な発展性」。用例。無限の可能性を秘める」
いずれも、良い意味に使っている。
実際、かつては、「可能性」はよいこと、望ましいことに用いる言葉であり、だれもがこの言葉にそういう語感を持っていた。先の新聞に投稿した人は、二人とも六十代だったと記憶している。
医学用語としての「可能性」が一般社会に広まり、否定的なことにも使われるようになったのではないだろうか。
現在ではそれがすっかり浸透し、「可能性」は本来、良いことに使うものという語感も崩れ、本来の意味を知らない人が増えてきた。
それにしても、この拡大解釈の「可能性」という言葉に慣れると、なんと使い勝手のよい言葉なのだろうかと、つくづく思わされる。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。