東 雑記帳 - 名前のいわれ
小学三年のとき、ある日の授業。担任の女性教師がこういう宿題を出した。
「自分の名前について、どういう理由や考えでその名をつけたか、親に聞いてきなさい」
命名のいわれを教えてもらうように、というのである。
帰宅後、すぐに母親に聞いたところ、こういうことだった。
曾祖父の繁藏(しげぞう)の“しげ”と、祖父の益吉(ますきち)の“きち”の音をとって、さらに繁を「茂」に替えて「茂吉」で“しげよし”と読ませることにしようと、祖父(益吉)が考えた。
しかし、「茂吉」は「もきち」と読まれる。それではかわいそうだと、母が難色を示したので、「吉」の漢字を「由」に替えて「茂由(しげよし)」に決まった。
翌日、教室で児童一人ひとりが机についている先生の側に行き、自分の名前のいわれを説明した。
自分の番がきて、曾祖父、祖父の名前にちなんで命名したことを伝えたところ、女教師は、
不快感あらわに、
「そんな名前の付け方はない。きっと理由があるはずだから、もう一度聞いてきなさい」
教師は、男子だったら、社会に有為な人物になることを願って「英雄」と付けたとか、女子だったら、美しい女性に成長することを願って美子と付けたとか、そういうたぐいのいわれを求めているようだった。
しかし、自分の名前にそのようないわれはない。曾祖父と祖父の名前をそれぞれ漢字一文字ずつもらって付けたのだから。
「そんなこと言われてもなあ」と思いながら帰宅し、母にこれこれしかじか、こんなふうに先生に言われたと伝えたところ、母も、
「そんなこと言われてもねぇ」と、鸚鵡返しに答え、困惑していた。
親や祖父母の名前から一文字もらって命名するのは普通にあること。祖父や母の思いが踏みにじられたように感じるが、それは大人になって考えたことなのだろう。
その教師にたいしては、「何を言っているんだろう」と思ったが、こちらは小学三年、反論するなどということは考えもしなかった。「頭が悪い先生だなあ」と思ったが、それも後年、そう思うようになったのかもしれなかった。
翌日、先生に再度聞かれた記憶はまったくないが、「昨日答えたのと同じ」と伝えて、それで終わってしまったのだろう。
母が反対しなければ、自分の名前は茂吉になっていたかもしれない。齋藤茂吉さんの時代じゃないのだから。茂吉にすると、「もきちどん」などと呼ばれ、からかわれたかもなあ。でも、それも似合っていたかもしれない。
それはともかく、曾祖父と祖父それぞれ名前から一字ずつ取って付けられた名前で、それは男の子が産まれた喜びの表れだった。大人になってから、はっきりとそう自覚した。今もそのことを思い出すたび、仕合わせな気持ちに満たされる。
なお、曾祖父の繁藏という名と、茂由の茂については、まだ続きがあるが、それはまた稿を改めて。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。