病気と歴史 - キューリー夫人の2度のノーベル賞受賞は放射線被曝、白血病と引き換えだった

病気と歴史 - キューリー夫人の2度のノーベル賞受賞は放射線被曝、白血病と引き換えだった
放射性物質の研究がピエール・キューリーとマリーを結び 

女性で初のノーベル賞を受賞し、しかも2度も受賞の栄に輝いたキューリー夫人は科学者として偉大であるが、それ以上に人物として偉大であった。
のちのマリー・キューリーであるマリア・スクロドフスカは1867年にポーランドの首都ワルシャワで5人兄弟の末っ子として生まれた。父は数学と物理の先生で、マリアは知的な雰囲気のもとに育ち、学校の成績は非常に優秀だった。
しかし10歳のときに母を亡くし、15歳で女学校を卒業すると家庭教師をして働いた。貴族の家庭で家庭教師を務め、不愉快な周囲に苦しみながらも勉強のために少しずつ貯金をした。24歳のときにフランスのソルボンヌ大学理学部に入学したが、そこでも非常に優秀な成績を残した。

キューリー夫人はパリではマリアではなく、フランス風にマリーと呼ばれていた。貧しいマリーが、パリの冬の夜の厳しい寒さをしのぐため、ありたけの服を着込み、本などを毛布の上に置いて寝たというエピソードはよく知られている。意志も強かった。
マリーは学業を納めた後はポーランドに帰り、ロシアの圧制下に苦しめられている祖国ポーランドに役立ちたいと考えていた。ところが、1894年の春、28歳のときにピエール・キューリーに出合い、それがきっかけとなり、パリで研究を続けることを決意した。2人を結びつけたのは放射性物質の研究で、それは当時最先端の研究テーマだった。

ラジウムを発見し、夫とともにノーベル物理賞を受賞

マリーはピエールと1895年に結婚し、1897年に長女イレーヌが生まれたのち、博士論文のために放射線の研究を始めた。夫とその兄ジャックが考案した感度が高い電位計を使って、アンリ・ベクレルが行った研究をより精密に実験、研究した。ベクレルは放射能を初めて発見したフランスの物理学者で、放射線量の指標であるベクレルの名前は彼の発見にちなんで付けられた。
マリーは放射線の放出がウラン原子そのものの性質であるというベクレルの発見を確証するとともに、トリウムもウラン同様に放射線を放出することを発見した。そして、自然に放射線を放出する現象に対して放射能という言葉を提唱した。

マリーはさらに、天然鉱石の放射能を調べる過程で、強い放射能を持つ未知の元素の存在を予測し、1898年、ピエールとの協同でウランの原鉱石ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の中に新しい元素を2つ発見した。その1つを祖国ポーランドにちなんでポロニウムと、もう1つをラジウムと名付けて発表した。
ラジウムの発見によって、マリーは夫のピエール・キューリーとともにノーベル物理学賞を受賞した。1903年、36歳のときだった。美しき女性研究者の偉業を当時のメディアはこぞって世紀の大発見ともてはやし、彼女の研究室には報道陣が殺到したという。

欧州戦争中、野戦病院でX線装置による診察に奔走

1906年4月に夫のピエールが研究所からの帰り道に馬車にはねられて死亡したが、その不幸にも負けずマリーはパリ大学で教えながら研究を続けた。
1914年7月、オーストリアの皇太子が暗殺され、欧州戦争(第1次世界大戦)が勃発し、ドイツ軍が戦線の布告もせずにベルギーを通過してフランスに侵入してきた。この国難に際し、マリーは自分の科学知識で国に報いたいと考えた。

フランスは今やマリーにとって第2の祖国であった。調べてみたところ、後方の病院にも野戦病院にもX線装置の設備がほとんどないことがわかった。彼女はフランス婦人教会に働きかけて費用を出してもらい、光線治療車をつくった。それは普通の自動車にレントゲン装置と、モーターを結びついて動く発動機線装置を取りつけたもので、この車で野戦病院や後方病院を巡り、負傷者を診察するために走り回った。この活動を4年間続けた。

夫の死後、ラジウムの単離成功でノーベル化学賞を受賞

放射線の研究では、わずかなラジウムを抽出するために、それを含むピッチブレンドを何トンも処理しなければならなかったが、いったいどれほどの放射能にさらされたのだろうか。加えてマリーは、野戦病院での診察でも危険なX線を大量に浴びたと思われる。このころはまだ、放射性物質やそれから放出される放射線が体を害するとは考えられていなかった。ラジウムは発見された当時、危険との認識はおろか、神秘の物質としてもてはやされていたのだった。

夫の死後、マリーは1908年にはパリ大学の教授となり、1910年には純粋の金属ラジウムの単離に成功し、この功績によって翌年にはノーベル化学賞を受賞した。

放射線に体は蝕まれ、白血病を発症して死亡

このように輝かしい業績と名誉の人生であったが、絶えずラジウムからの放射線を浴びて体はいつしかあちこちと蝕まれていった。
1934年の初め頃から、彼女は体調不良を訴えるようになっていた。疲労しやすく、微熱に苦しむようになった。5月のある日、熱があるといって研究所を早退し、こののち研究所でその姿が見られることは再びなかった。ついに病床についたのだった。
血液検査をした結果、白血球も赤血球も異常に減少していることがわかった。長年、手がけていたラジウムが出す放射線のために白血病に冒されていたのだった。

彼女は体調不良を感じても、医者にかかるのを嫌った。ただの医者嫌いではなく、キューリー夫人を尊敬する医者は1人も金を受け取らず、それが彼女を困惑させるからだったという。ようやく異常が見つかったものの治療法はなく、同年7月3日に亡くなった。66歳だった。最期まで、放射線被曝による健康被害は認めなかったという。

晩年の夫人は白内障のために視力をほとんど失っていたが、それも放射線の害によるものと思われる。放射線の害が問題視されるようになったのは、マリーが亡くなる10年ほど前だったという。ちなみに、マリーの長女イレーヌはマリーが亡くなった翌1935年に夫のフレデリック・ジョリオとともに核分裂反応の発見によってノーベル化学賞を受賞した。そのイレーヌも、白血病のために1956年に58歳で亡くなった。
マリーは科学者として、教育者として、女性として、母として、すばらしい人物だった。
その科学者としての研究成果と名誉は放射線被曝と引き換えだった。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。