病気と歴史 - 元寇の国難に一身をもって立ち向かい過労死した北条時宗
数え18で鎌倉幕府の執権に
北条時宗は、建長3年(1251)、鎌倉幕府5代執権北条時頼と、北条重時の娘との間に生まれ、幼少より時頼の後継者となるべく育てられた。
源頼朝が建てた鎌倉幕府は、頼朝による独裁政権で、北条時政は将軍を補佐する執権の地位にあった。ところが頼朝亡き後、時政は実権を掌握し、以後数代にわたって幕府最高権力者としての北条時代が続くことになる。
弘長3年(1263)年、時頼が逝去。時宗はまだ幼少だったため、北条長時と北条政村が暫定的に執権の職を預かり、その後、政村が執権の座についた。
その間、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の取り巻きの一部で時宗を排除しようとする計画があるとの噂があったが、時宗はこれを見事に収め、親王は孤立して将軍の地位を追われた。
文永5年(1268)正月に、執権政村に蒙古(元)から国書が届いた。表向きは友好的な通交を求めたものであるが、実質は降伏勧告であった。この国家存亡の危機に果敢に対応するため、老齢の政村に代わって時宗が執権となった。このとき時宗は数えで18歳だった。
全生命を燃焼し、蒙古襲来から国を死守
蒙古からは都合6回の使者が来たが、時宗はこれを追い返し、あるいは返書を渡さなかった。チンギス・ハンが1206年に建国したモンゴル帝国は、蒙古を中心に、東は中国東北地方、西は南ロシアまで支配した。
元の初代皇帝・フビライの武力侵略の狙いを見抜いた時宗は、敢然として、武力による日本防衛を決意したのだった。「天下の大事とはこの時である(北条九代記)」と、蒙古の使者を2度も斬り捨て、開戦の決意を示した。
時代を追って記述すると、文永8年(1271)、蒙古の使節が再び来日して武力による進攻を警告すると、時宗は西国御家人に鎮西下向を命じ、準備をさせた。文永9年(1272)には、時宗が執権になったことに不満を持ち、朝廷に接近するようになっていた兄の教時や一族の名越時輔を誅殺した。
日蓮の予知能力を恐れ、佐渡に島流し
文久11年(1274)10月、蒙古軍が襲来した。時宗の日本軍は苦戦したが、暴風雨の到来によって蒙古軍は撤退し、全面的戦争は回避された。
この年にはまた時宗は、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に島流しにした。時宗は禅宗に帰依するなど信心篤かった。
日蓮は、「仏の教えで唯一正しいのは法華経以外にない。したがって、『何妙法蓮華経』と、お経の題目(題号)を唱えれば、だれもが救われる」と言い切り、法然の唱えた「唱名(仏の名を唱えること。つまり、南無阿弥陀仏)」を標的として、攻撃した。
日蓮は『立正安国論』のなかで、「いま、正しい法に改めなければ、残る二難が襲ってくる」と予言した。それは、1つは他国からの侵略で、もう1つは自国内での謀反、反乱が起こるということだった。
時宗は日蓮の予知能力を不思議に思い、恐れた。嫌ってはいず、その能力を買っていたが、執拗に念仏を非難することを無視できず、前述したように佐渡島流しにしたのだった。
蒙古・高麗の大群軍を目前に、微動だにしなかった
建治元年(1275)、蒙古軍の使者杜世忠が来日したが、これを斬り殺し、一貫して対蒙古強硬政策を貫き、高麗進攻、防塁建造、非御家人の軍役動員などを進めた。こうした政策によって、幕府を事実上の全国政権たらしめていくと同時に、舅の安達泰盛、得宗の平頼綱らによる寄合いを政治の中心におき、西国の守護職や重要所領を北条一門で独占する、いわゆる得宗専制を強化していった。
蒙古軍が次に襲来したのが弘安4年(1281)で、このときは作戦指示が時宗の名によってなされ、得宗被官が戦場へ派遣され、指揮をとった。日本側は石塁などで防御を強化しており、これに蒙古軍は手を焼き、苦戦するうち、暴風雨が荒れ狂って、蒙古軍は海の藻屑となって壊滅した。こうして日本は守られ、2度にわたる暴風はのちに神風と呼ばれるようになった。
時宗は、海を覆わんばかりの蒙古・高麗の大群軍を目前に、微動だにしなかったと伝えられる。若き執権でありながら、国難に当たる総指揮者としての果断さは、禅の修行に負うところが大きかったようである。
内憂外患に果敢に立ち向かい、心身が疲弊
時宗については、東軍の兵を送らなかったことを批判的に見る向きもある。元寇襲来に派遣されたのは九州の武士で、その後ようやく畿内の武士を派遣し、東国の武士はいっさい送らなかったが、これには事情があった。
当時、時宗は執権内部にも問題を抱えており、兄の時輔や一族の北条時章・教時兄弟を誅殺した。権力を増していた安達一族の安達泰盛は将軍宗尊親王を立てて時宗を失脚させようと図ったが、時宗は親王を追放した。
非情なまでに粛清を行ったが、それはたとえ幕府や北条家が滅びようとも、自己を犠牲にして日本を守るという決意の表れだった。
しかし、内憂外患に果敢に立ち向かったことで、時宗の心身は疲弊し、蝕まれていった。さらに時宗の心を痛めたのが、2度の元寇による報償の問題であった。当時の武士にとって最大の恩賞は土地であった。
全国の武士から「恩賞寄越せの声」が上がったが、分け与える土地は現実にはなく、時宗は要求を退けたが、心労は大きかった。日蓮の予言は当たったとみるべきだろうか。
全精力を使い果たし、ストレス死
弘安6年(1283)の春ごろより、心の状態を崩し、ひどい疲れを訴え、床に伏すようになった。翌7年には病はひときわ重くなった。
多くの医師が、よいと思われるさまざまな医療を試みたが、効果ははかばかしくなかった。護摩を焚き、祈祷もしたが、何の霊験もなかった。やむなく出家することにして剃髪をしたが、頭を丸めたその日(4月4日)の暮れ方に卒然と息を引き取った。33歳の若さだった。
病名、死因ともに不明であるが、2度の元寇襲来に全生命を燃焼し、全精力を使い果たし、心身を消耗したためと見られている。
篠田達明著『日本史有名人の臨終図鑑』(新人物往来社)は、歴史上の有名人の死に病を題材にし、その病気克服のための処方箋を記しているユニークな著作である。
同著で時宗も取り上げ、次のような処方箋を示している。
「(前略)山積する難題が心労となって体調を損ねたものと思われる。これらの強いストレスをはねかえすには、ゴルフなどして体力回復をはかるのがよさそうだが、すでに心身衰耗して再起不能の状態。朝鮮人参などの強壮剤にて経過をみる」
将軍の官
吉祥寺東方医院の三浦於菟院長(元東邦大学医学部医療センター大森病院東洋医学科教授)は次のような見方を示している。
「東洋医学には、『将軍の官』という言葉があります。肝は盾で、軍人が国を守るように、肝はストレスから体を守ります。元寇は日本始まって以来の最大の国難で、初めての経験だったでしょう。
時宗はそのストレスに肝が耐えられず、その結果、全身が衰弱して亡くなったものと思われます。肝を守るには、楽しいことをすればよいのですが、真面目なためにそれはできなかったのでしょう。あるいは、人をうまく使えば、ストレスは軽くてすんだはずです」
時宗以後の歴史し、元寇後の武士たちの不満を巧みに利用し、間隙をついて、足利尊氏が台頭し、北条家は時宗の孫、高時のときに滅びた。後世、時宗の評価は分かれるが、心情としては、国を救った恩人として評価をしたい。
日本は世界でもっとも一国の歴史が長く続いている希有な国で、しかも一度も他国に占領・支配されたことがない(今の日本は実質、アメリカの支配下にあるとの見方があるが、ここではそれはさておく)。
ロシアは蒙古に侵攻され、占領されたが、今も過去の汚辱と受け止められているという。翻って、日本がもし蒙古に占領・支配されたとしたら、その後の日本はどうなっていたのだろうか。
日本は今、2011年の東日本大震災の大被害と、それによる原発事故に見舞われ、未曾有の国難に遭遇した。その後も経済の低迷は続き、そして今、新型コロナウイルス禍にある。この危機に際し、時宗のように生命を賭して国を救おうとするリーダーは生まれこないものだろうか。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。