病気と歴史 - 兄弟を殺し武家政権を樹立した源頼朝~猜疑心の源は脳梗塞だった

病気と歴史 - 兄弟を殺し武家政権を樹立した源頼朝~猜疑心の源は脳梗塞だった
公家の政治が終わり、武家が台頭。源氏と平氏が覇権を争う

藤原家による摂関政治は道長の時代に最盛期を迎え、やがて衰退していった。きっかけとなったのが治暦4年(1068)、王統統一の流れの中で後三条天皇が即位したことにあった。その前年、藤原頼道は関白を辞していた。
後三条天皇は宇多天皇以来百七十年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であった。ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である。後三条天皇は、天皇の威信と律令の復興を意図する政策を次々と打ち出し、次代の白河天皇もその政策を引き継いだ。この間、摂関家の内部では確執が起こり、天皇に対して具体的な対抗手段を取れる状況ではなかった。

白河天皇は応徳3年(1068)に譲位し上皇となったが、それは引退ではなく、上皇としての政治、いわゆる院政の開始であった。律令の規定上、上皇は天皇と同等の権力行使が可能である一方で、天皇のように制度や慣習によってその行動や意志決定の過程を制限されてはいなかった。さらに天皇の実父であるという強みも得て、政治権力は摂政・関白から上皇へ移行していった。
公家の政治が終わり、王権の強化が始まったが、そこへ台頭したのが平氏、源氏の武家だった。天皇に味方をすれば敵対もし、平家と源氏は覇権を争うようになっていった。

伊豆に配流されるも、北条政子と結婚。平氏打倒の令旨を受けて挙兵

源頼朝は平安時代末期の久安3年(1147)に河内源氏の源義朝の3男として生まれた。父義朝は平治元年(1159)、藤原信頼とともに平清盛の留守に後白河上皇の住む三条殿を急襲し焼き払った。クーデターに成功したものの、その後平清盛に破れ、尾張で謀殺された。
頼朝は伊豆に流され、20年余り配流生活を送っていたが、時代は平氏打倒の動きを強めていった。治承4年(1180)、平氏打倒の以仁王(高倉天皇の兄宮)の令旨が発せられ、これを受けて頼朝も決意し、伊豆で挙兵した。配流の地、伊豆で、頼朝は北条政子と結婚している。

最初の戦いの石橋山の合戦では破れたが、その翌日、弟の義経が頼朝のもとに馳せ参じ、頼朝は涙を流して喜んだ。そして、源氏の武士団が結集して大勢力を結成し、鎌倉に入って拠点とした。平氏は頼朝追討軍を向けるが、富士川で惨敗した。翌年2月、清盛が急死すると、頼朝は後白河法皇に忠誠を誓った。
寿永2年(1183)、木曽義仲が平氏を京の都から追放したが、義仲と頼朝は対立し、頼朝の異母弟源範頼と源義経が数万の騎を率いて義仲を討ち果たした。頼朝は平氏を討つために範頼を進撃させ、さらに義経を派遣した。一ノ谷と屋島で平家の大軍を天才的な作戦で破った義経は壇ノ浦で平氏を滅亡させた。

弟、義経を死に追い込み、後白河法皇も屈服させ、鎌倉に幕府を開く

ところがその後、頼朝は義経を、謀反を起こした科で追放した。頼朝の猜疑心は強く、義経が許しを得ようとしたが、鎌倉へ入らせなかった。義経は平泉の藤原氏を頼り奥州へ落ちのびたが、結局死に追い込まれた。
義経の処遇を目のあたりにした範頼は頼朝に忠誠心を示したが、範頼への頼朝の猜疑心は募るばかりで、範頼が謀反を企てているとの密告によって激怒した頼朝は範頼を伊豆の修善寺に幽閉した。その地で範頼は建久4年(1193)に謎の死を遂げた。
この間、頼朝は後白河上皇と対立した。義経謀反の嫌疑も、源氏の勢力拡大を喜ばない後白河上皇が頼朝牽制のために義経を利用しようと義経に顕官を与え、昇殿まで許したのが発端らしい。
法皇は義経とその叔父行家に頼朝追討の宣旨を下すが、これに怒った頼朝は法皇を「日本一の大天狗」と罵倒したが、その強硬な姿勢に法皇は震え上がったという。頼朝は守護・地頭の設置を法皇に認めさせたが、これは全国の土地を頼朝が支配するということだった。
頼朝に逆らう力がなくなった法皇は建久3年(1192)に逝去した。頼朝は征夷大将軍となり、幕府を鎌倉に置いた。以後700年に渡る武家政治のもとが開かれたのだった。

落馬したのが原因で10日後に急逝

頼朝は正治元年(1199)の1月、相模川の橋供養に参加し、その帰り道に落馬したのが原因で、その十日後に亡くなった。53歳だった。頼朝は馬に乗り慣れており、そういう人間が落馬するのは非常に珍しいことである。やはり体のどこかに異常があったと考える方が自然である。頼朝は、おそらく脳卒中を起こして、落馬したものと思われる。
『吾妻鏡』には次のような記述がある。

「佐殿(頼朝)がご逝去なさいましたのは、正治元年の正月13日にございました。そのころ、佐殿はよく側近の者たちに、『ときどき耳に蝉の声がする』などとよくおもらしになりました。佐殿は、京からお帰りになりますと、なにか気がおぬけになりましたように、寺詣りばかりをして、その日、その日をお送りになることが多くございました。それと共に、大姫さまの病もおもわしくなく、一進一退とはかばかしくございませんでした」

耳鳴りも脳の動脈硬化が原因で起こる。動脈硬化が進んでいて、脳梗塞か脳出血を起こしたのか。あるいは、くも膜下出血を発症したとも考えられるかもしれない。また、頼朝の異常とも思える強い猜疑心は、脳梗塞による脳血管障害によるものだったと考えても少しも不思議ではないだろう。
『吾妻鏡』にも、次のような記述がある。

「また、佐殿のこの気狂いじみた非常さはどこからきたものでございましょう。世の中の人々は、いったん覇者の座を得られますと、その覇者の座をまもるためには、政治的な見地からという名文句を発見して、こうした理不尽で冷血非情なことをば、みな平気でなさるのでございます。」とある。

微少な脳梗塞が猜疑心を強めたのか

脳梗塞の発作を起こした後、性格が変わることがあることはよく知られているが、発作を起こす前に同様の変化が見られることもある。
微少な脳梗塞ができると、猜疑心が強くなったり、怒りやすくなったりするなど、認知症と同じように性格や気質の変化が見られることがある。
「60歳を過ぎて、急に人間が変わったように短気になったりしたら、脳梗塞を疑ったほうがよい」と言う医師もいる。

頼朝の死に関しては、鎌倉幕府の正史とも言うべき『吾妻鏡』が、頼朝の死をはさんで前後3年欠けていることから、いろいろ取り沙汰をされてきた。詳しいことは不明のままである。武士の名誉のためにと、徳川家康が削除したと言われているが、それを否定する説もある。
頼朝の猜疑心によって、兄弟の範頼と義経が殺されてしまったこともあり、源氏はわずか3代で滅びてしまう。その結果、鎌倉幕府は頼朝の妻政子の実家である北条氏に独占されて、北条家による執権政治の世に変わっていった。猜疑心と非情さによって初めての武家政権を樹立した頼朝であるが、それが病気に起因しているとすれば、その病気が頼朝の命を失い、さらには源氏をも滅亡させることになったといえるだろう。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。