病気と歴史 - 古事記の編纂者、太安万侶(安麻呂)は歯周病だった
元明天皇の命を受けて編纂
現存する日本最古の歴史書『古事記』は、奈良時代初期に編纂された天皇家の神話である。上巻は神々の物語で、中・下巻は初代天皇とされる神武天皇から推古天皇に至る各代の系譜や天皇、皇子らの物語である。
その『古事記』を編纂した人物といわれるのが、奈良時代の文官、太安万侶(安麻呂)(おお の やすまろ)(生年不詳~養老7年=西暦723)。
古事記の序文によると、最初、天武天皇が稗田阿礼に資料となる『帝紀』『旧辞』を誦習(読み習うこと)させたが完成しなかった。
その30年後の和銅4年(711)、元明天皇の勅を受けて、稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を太安万侶が筆録。翌712年、天皇に『古事記』として献上した。
ところが、太安万侶については、歴史上は実在しない架空の人物だという説もあった。
現代になって、実在の人物だったことが判明
ところが、昭和54年、その説が吹き飛ぶ大発見がなされた。奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見されたのだった。火葬された骨や真珠が納められた木櫃(木製の入れ物)とともに墓誌が出土した。
墓誌の銘文には、位階と勲等が従四位下勲五等だったこと、養老7(723)年に没したことなどが書かれてあったが、古事記を編纂したことは触れられてなかった。
新聞はこの発見を大々的に取り上げ、正書、偽書論争が湧き上がった。実在の人物であることが証明されたので、偽書説も否定されたという意見もあれば、編者の証明にはならないし、偽書説を否定する証拠にはならないという見解もあった。
結局、この論争は今に至るも決着がついていない。
顎の骨から歯周病が判明
板東定矩氏の『歴史人物お脈拝見─著名人も悩んだ病気あれこれ』(ぎょうせい)では、この太安万侶を取り上げている。同著によると、この発見の後、しばらくして、太安万侶は歯槽膿漏(歯周病)だったとの報道がなされたという。
歯周病が進行すると、歯が抜け落ち、最後は歯を支えている骨(歯槽骨)も溶けてなくなってしまう。
歯の根は、上下の骨の中に奥深く埋まっている。この骨のくぼみを歯槽というが、歯周病が進むと最後はこのくぼみがなくなるので、顎の骨を見れば生前の歯の状態も推察される。そのため、太安麻呂が歯周病だったことが判明したのだった。
歯周病が進むと、痛みが伴い、食べることに不自由をする。この時代、有効な療法があったとは思えないので、太安麻呂も痛みと不便をこらえて生きたのだろうか。歯槽骨が溶けるまで歯周病が進んでいたのだから、さぞ苦しかったに違いない。
太安万侶の場合、何が原因として影響したのか
歯周病は現代病のようなイメージがある。古代は歯周病はなかったといわれるが、実は古代エジプトのミイラにも歯周病があったことがわかっている。わが国でも、縄文、弥生と時代が下がるにつれて歯周病は増えてきた。先の板東定矩氏の本に、「歯周病は洋の東西を問わず、太古の昔から人類を悩ませてきた病気だった」と書いてある。
現在、歯周病の人は多いが、一因は軟らかいものの多食にあるといわれる。歯周病は細菌が原因の病気であるが、発症には生活習慣や心身の状態が強く影響する。太安万侶の場合、何が原因として影響したのだろうか。古事記編纂がストレスになったのだろうか。
それはわからないが、歯周病の治療は進化している。現在では、歯周病がかなり進み、歯がぐらつくようになっても、治療とケアによって、歯を抜かないで改善の方向へ持っていけることも可能である。太安麻呂も、現代なら、歯を失わずにすんだだろう。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。