病気と歴史 - 性的妄想が生んだ『未完成交響曲』 シューベルト「未完成交響楽」を未完成に終わらせたのは梅毒だった。

病気と歴史 - 性的妄想が生んだ『未完成交響曲』 シューベルト「未完成交響楽」を未完成に終わらせたのは梅毒だった。
幼少の頃から天才ぶりを発揮 

シューベルトの音楽は何よりメロデイが美しいことで知られている。オーストリアの天才音楽家フランツ・シューベルトは1797年、ウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。幼いころから父親にバイオリンの手ほどきを受けるようになったが、7歳の頃には父の手にあまるようになった。
やがてオルガン奏者のホルツァーに師事することになった。天才ぶりが発揮され、ホルツァーは当時のシューベルトについて、「新しいことを教えようとしても、この子はもう知っている」と述べている。

1808年、11歳で王室礼拝堂の少年合唱隊に入り、国立神学校で音楽教育を受けた。そこで当時一流の作曲家サリエリに才能を認められ、演奏と作曲に才能を発揮した。1813年、16歳で神学校を去って教員養成課程に進み、その後、父親が経営する学校で教師として働きながら作曲を続けた。
1814年から15年にかけて、『糸を紡ぐグレートヒェン』『野ばら』『魔王』『さすらい人の夜の歌』などのすぐれた歌曲を次々に作曲し、1816年には『子守歌』、19年には『鱒』などの名曲を発表した。

1820年頃になると、シューベルトの新作を楽しむ人たちが増えていき、いつしか「シューベルティアーデ」と呼ばれる集まりがつくられるようになった。1822年には、シュタイアマークの音楽協会の名誉会員に推薦された。有名な交響曲『未完成交響曲』は、この名誉会員への推挙に対する返礼として、シューベルトが作曲したものである。
『未完成交響曲』はシューベルトが作曲した7番目の交響曲であるが、通常、交響曲は第四楽章まであるのに、『未完成交響曲』は第2楽章までしかないことからこの名がつけられた。未完成であるにもかかわらず『未完成交響曲』という、未完成を冠にした名前がつけられたのは、2楽章だけでも名曲であることが判然としているからだろう。

25歳のときに梅毒に罹患、苦しい闘病生活が始まる

シューベルトの作曲家人生をたどると、輝かしさに満ちあふれているように思えるが、貧しさは続き、また途中からは病気に苦しめられるようになっていた。病気は梅毒であった。25歳になった1822年2月に体調不良を訴えるようになり、7月にはこの業病にかかっていることがわかった。
同年12月、シューベルトはウィーンの病院へ診てもらいに出かけたが、頭皮は吹き出物におおわれていたので、髪の毛を剃り落とし、患部はカツラで隠した。その後、たびたび頭痛、めまい、うっ血に悩まされるようになり、短いが精神の錯乱に陥ることもあった。23年の5月には入院を余儀なくされた。苦しい闘病生活を送りながらも、シューベルトは『美しい水車屋の娘』という悲しい物語を謳った歌曲集を世に送り出した。その名声はオーストリアだけでなく、ヨーロッパ中に広まっていった。

1825五年には、イギリスの作家スコットの『湖上の美人』の中の詩に曲をつけた『エレンの歌』を発表した。『エレンの歌』の中には、かの有名な『アヴェ・マリア』が入っている。1827年には、名曲『菩提樹』が入っている歌曲集『冬の旅』を作曲した。
1828年になると、病気はさらにますますひどくなった。頭痛に悩まされ、そのうえに、めまいにも悩まされることが多くなっていた。それでもシューベルトは、弦楽五重奏曲、『白鳥の歌』などの大作を次々に作曲していった。弦楽五重奏、ピアノソナタ第19、10、21番を完成させたのは1928年の9月だった。

中産階級では、性的欲望の処理は娼婦にみてもらうのが普通だった

シューベルトは、いつ、どこで、誰から梅毒に罹患したのか。『シューベルト』(喜多尾道冬、朝日選書)によると、シューベルトは1822年11月、25歳のとき、ピアノの名手シェルマンの記念帳に、「酒、娘、歌を愛さないものは、一生の不作。マルティーン・ルター」と記した。ちなみに、こんにちでは、この言葉がルターのものか疑いをもたれているが、当時はルターの言葉として人口に膾炙していたという。

シューベルトの時代、オーストリアでは男性の独身者は少なくなかった。中産階級では、男たちは体面を保ち得る安定した経済基盤を築くのに時間がかかり、ために晩婚になりがちだった。畢竟、男たちは性的欲望の処理は娼婦にみてもらう。シューベルトもその一人だった。
シューベルトは、ルターの言葉を記した3カ月後、外出できないほどの体調不良を訴えている。梅毒の症状の第一期は、感染して3ヵ月ぐらいで現れることから、「決定的な証拠はないが、1822年の終わりごろに、彼がこの病気に感染する原因となるようなことをしでかした疑いは大きい」と同書では述べられている。さらにこう記している。

エロスの欲望の捌け口を音楽の表現に向けた

「彼のいわゆる《未完成》交響曲に目を向けると、そこから聴きとれるのはその悶々とした性的妄想である。この曲は1822年10月30日に作曲を開始されている。それはあの『酒、女、歌』のほぼ1ヵ月前にあたる。この時期に彼のエロスの願望が昂進し、それにもかかわらずその捌け口を見いだすことができず、音楽で表現することでカタルシス代わりにしようとしたのではなかったか」

シューベルトは絶望の果てに31歳の若さでこの世を去った。1825年、悪化する健康状態をこんなふうに嘆いている。
「一言でいうと、僕はこの世でもっとも不幸でみじめな人間だということだ。もう決して健康が回復することなく、その絶望感から人生をますます悪くしてしまう、そんな人間のことを想像してみてくれ」(『王様も文豪もみな苦しんだ性病の世界史』ビルギット・アダム、草思社)

その絶望の淵にあって、数々の名曲をものにした。絶望に沈んでいたから、白鳥の湖のような美しい旋律の音楽をつくり得たのか。
ちなみに、前出の喜多尾道冬氏の『シューベルト』は、シューベルトの音楽の美しさの拠って来るところを考察した著作である。
「未完成交響楽」を未完成に終わらせたのは梅毒だった。『未完成交響曲』は、そのままでも十分な交響曲と見なしうるとして頻繁に演奏されている。もしシューベルトが梅毒にかからなかったら、未完成交響曲が完成したのはもちろん、その後どういう音楽をつくったのだろうか。梅毒が天才の命を奪い、創作活動を奪ったことだけは事実である。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。