病気と歴史 - 脚気による心筋障害で早世した14代将軍徳川家茂
攘夷を約束させられた2年後、下肢にむくみが生じる
徳川第13代将軍家定は、安政5年(1858)年、35歳で亡くなった。死因は脚気による心筋障害(心臓機能不全)であった。その跡を継いだのが紀伊藩主徳川慶福で、このとき名を家茂と改めた。13歳だった。
大老、井伊直弼の強力な推挙の賜物だったが、幕末の騒乱の中、その2年後、井伊大老は桜田門外で暗殺された。さらに2年後、幕府の公武合体策により、家茂は孝明天皇の妹の和宮と結婚した。
朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の立て直しを図ろうとした、公武合体。家茂は公武合体を進めようとした大老の後ろ盾を失った家茂は、元治元年(1864)、上洛して孝明天皇に謁見し、攘夷を約束させられた。
慶応元年(1865)、家茂は長州と戦うために上洛し、そのまま大坂城に滞在。翌慶応2年(1866)5月頃より、下肢にむくみが生じ、吐き気をもよおし、胃の具合も悪くなった。
漢方医と蘭方医師で診立てが分かれた、20歳の早世
7月には、下肢のむくみはさらにひどくなり、身の置きどころがないほどの疲労感を訴えた。侍医たちは治療に専念し、京都からも典薬頭の高階経徳が往診に来た。
高階をはじめ漢方医は家茂の病気を脚気と見立てていたが、蘭方医たちはリウマチに胃腸障害が合併した病状であろうと診断した。見立てが分かれた背景には、両者の勢力争いがあった。
家茂は7月19日夜からは危篤状態になり、翌20日午前6時に逝去した。満20歳の若さだった。
家茂の病気のほんとうの病気は脚気で、脚気衝心といって、急性の心不全を引き起こしたのだった。家定に続いて2代、将軍が脚気衝心で亡くなったわけである。
家茂亡き後は、徳川慶喜が第14代将軍の地位に就き、彼は徳川家最後の将軍となった。慶応3年(1867)1月に大政奉還し、新政府軍への江戸城開け渡し(無血開城)を行った。武家政治から明治新政府への円滑な移行には、慶喜の功績が大きいと評価されている。
もし、家茂が早世しなかったら、歴史はどうなっていたのだろうか、家茂は幕臣からも信望が篤かったと言われる。勝海舟は、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れた人物であった」との評価の言葉を残している。
江戸後期から白米を食べるようになって、脚気が大流行
それにしてもなぜ、家定、家茂と2代続いて脚気で亡くなるような事態を招いたのだろうか。その原因は白米にあり、しかも脚気がビタミンB1不足によって起こるとわかっていないからであった。
脚気は江戸時代までは日本にはなかった。
それが江戸時代後期から大流行するが、その理由は、米を精白する技術が進み、玄米ではなく白米を食べるようになったためである。江戸、大坂には特に多く、ために「江戸煩い」とか「大坂腫れ」と言われた。
家茂は砂糖を使った甘いものが大好きだったという。この時代、上流階級は砂糖を日常的に用いるようになっていた。砂糖の摂取はビタミンB1を消費する。家茂の脚気には砂糖の摂取も関係していたのだろうか。
脚気の流行は明治に入ってからも続き、脚気の予防食に関し、天皇を巻き込んで海軍、陸軍が食事論争をくり広げた。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。