病気と歴史 - 脚気の予防食で勝ち取った日露戦争の勝利

病気と歴史 - 脚気の予防食で勝ち取った日露戦争の勝利
江戸中期以降、都市部で多発するようになった奇病、脚気 

脚気は江戸時代の中期から江戸や大坂、京都など都市部で見られるようになった。それまではほとんどなかった奇病であった。脚気は最初足に症状が出ることから、この名が中国でつくられた。むくんできたり、足の神経が麻痺して歩行が困難になったりする。そして進行すると心臓の神経が麻痺して心不全(脚気衝心)で死んでしまう。

原因は玄米ではなく、白米を食べるようになったことにあった。脚気はビタミンB1の欠乏によって起こる栄養障害である。玄米の精白は糠や胚芽の部分を取り去るが、それらの部分にビタミンB1は含まれる。精米した白米にはビタミンB1はほとんど含まれていない。
また、麦や粟、稗、蕎麦などの穀類にもビタミンB1は含まれる。
このほか、ビタミンB1を含む食品に豚肉、落花生や大豆などの豆類・種実類、うなぎなどがあるが、それまでの日本人は主に穀類から主にビタミンB1を摂取していたのであった。

それが食糧事情がよくなり、白米を食べる人が増え、それとともに脚気も増加していった。 明治時代になってからも脚気は多くの人の命を奪い続けた。脚気の原因はまったくわかっていなかった。

脚気は慶応大学医学部創設にもからんでいた

脚気を伝染病と思い込んだ東京帝国大学の緒方正規が脚気菌を発見したという論文を発表したが、ドイツの留学先で破傷風菌の発見という世界的な業績を打ち立てていた北里柴三郎がこの論文を完全に否定した。
このことを恨んだ緒方はドイツから帰国した北里を徹底的に冷遇した。北里が開発した破傷風の血清療法は本当なら第1回のノーベル医学賞を授賞されていたはずである。その証拠に、第1回のノーベル医学賞は北里とまったく同じ手法を用いてジフテリアの血清療法を開発したドイツのベーリングが授賞した。

北里のノーベル賞受賞妨害に結核が絡んでいたのであった。そればかりか、北里は「恩知らず」として母校東大医学部と対立するかたちになってしまい、帰国後の活動が制限されてしまった。
その北里を救ったのが、慶応義塾の創立者福沢諭吉であった。福沢の援助によって私立伝染病研究所が設立され、北里はその初代市長に就任した。その後、この研究所は国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、北里はここで伝染病の予防と細菌学に取り組んだ。

福沢が逝去すると、北里はその恩義に報いるために大正7年(1917)に慶応義塾大学に医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。わが国の私学医学部雄、慶應大学医学部創設にも脚気がからんでいたのである。

陸軍の白米食と海軍の西洋食

脚気に話を戻すと、その後、陸軍軍医総監の森林太郎(森鴎外)と海軍軍医総監の高木兼寛が脚気を巡って対立した。多くの兵卒が脚気に倒れ、次々に死んでいく状況のもと、陸軍も海軍も脚気に悩まされていた。
そうしたなか、高木は世界に先駆けて脚気の予防に成功し、海軍から脚気を追放することに成功した。ヒントは英国海軍には脚気がないことにあった。

この疑問から始まり、「日本海軍に脚気が多く英国海軍に脚気がないのは食事の違いにある」という答えを導いた高木は、明治16年(1883)に米(白米)を中心とする日本食を載せた「龍譲」、翌年には英国海軍と同じ西洋食を載せた「筑波」を遠洋航海に出した。
航海を終えて日本に戻ってきた「龍譲」と「筑波」には驚くべき違いが生じていた。白米を中心とする日本食を食べた「龍譲」には367人の乗員が乗っていたが、そのうち169人が脚気となり、25人が死亡した。
一方、西洋食を食べた「筑波」の333人の乗員は全員が元気で帰国し、脚気で死亡した乗員は一人もいなかった。

これによって、「日本海軍に脚気が多く英国海軍に脚気がないのは日本食と西洋食の違いにある」という高木の仮説が正しかったことが証明されたのだった。

日清、日露戦争で、海軍の麦飯食が脚気予防に有効なことが証明された

その後、高木は「お米とパンはなにが違うのか」という問いを設定し、「パンの原料は麦だから麦飯を食べれば脚気は予防できる」という答えを導き、それに基づいて明治18年(1885)から海軍は麦飯を採用した。
こうした明白な結果が出たのだから、陸軍も海軍と同じようにすればよかったのであるが、陸軍の森林太郎は『日本兵食論大意』のなかで、「米を主としたる日本食は人体を養い、心力、体力を活発ならしむこと、いささかも西洋食に劣ることなし」と主張し、高木の栄養説を批判した。
森は「どうして英国海軍には脚気がないのか」ではなく、「どうして西洋食が脚気の予防になるのか」という問いしか設定できなかった。ドイツ医学の信奉者だった森には、ロンドンのセント・トーマス病院でイギリス医学を学び、日本初の私立医大である慈恵医大を創設した高木の現実的な問いを理解することができなかったのである。

戦争は、翌年三月に日本の勝利で終わった。

こうした戦いに終止符が打たれないまま、明治27年(1894)に朝鮮半島の領有を巡って中国との間に日清戦争が始まった。
陸軍兵士の脚気患者は年々減少し、明治26年(1893)、新患者が113名、死者は2名と絶滅に近づいていたが、この戦争では外征部隊の2割弱が脚気にかかり、うち1割強の4064人が死亡した。
一方、海軍は明治26年には患者1名だったが、27、28年を通じて患者は33名で、うち死者は3名にとどまった。(日清戦争による脚気状況「明治廿七八年戦没陸軍衛生自責」陸軍医務局1907─『病気の日本近代史』秦郁彦、文藝春秋参照)

その後、日露戦争が勃発すると、陸軍では21万人を超える脚気患者が発生し、なんと2万7800人の兵卒が死亡した。日露戦争における日本の戦死者が5万8000人だったことを考えると、脚気で死んだ兵卒がいかに多かったかわかる。
一方、海軍では患者は105人で、死亡したのはそのうちの1人だけだった。
戦死者や病死者数に関しては、さまざまなデータがある。ことに脚気による死亡については、恣意的なデータもあり、正確なデータはわからないようだ。しかし、海軍には脚気による死亡が少なかったことは確かである。

日露戦争の日本の勝利に、海軍が脚気死を最低限に抑えたことが貢献

この戦争は日露双方、戦闘死が病死を上回ったが、それは歴史上初めてのことであった。島国日本が大国ロシアに挑んだこの戦争は無謀きわまりないものだった。開戦直後から、日露ともにアメリカなどに対して、終戦のための根回し工作をした。日本は戦いを優位に進めた段階で終結にこぎつけることができたが、もう少し長引いたら日本の敗戦は必至だったともいわれる。
日本の勝利には、海軍が脚気による死亡を最小限に抑えたことも貢献したと考えられる。
ちなみに、ロシアは戦争終結の直前、ステッセル司令官はロシア皇帝にあて、「壊血病によって守備兵が壊滅的な打撃を受けています。あと2、3日しか要塞はもちません」と打電している。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。