病気と歴史 - 脳卒中による謙信の急死が信長の天下統一を早めた
ライバル信玄の死に号泣!?
戦国時代の越後国と甲斐国。ライバル越後国信玄が元亀4年(1573)に陣中で病死すると、その報は日ならずして越後国へ伝わった。訃報を確かめた上杉家の老臣たちはこの虚に乗じて信州へ出陣するよう上杉謙信に勧めたが、謙信は、
「若い勝頼に代替わりをしたからといって、すかさず武田を攻めほろぼしては大人気無い。世間の笑いものの種である」と言ってこれを退けた。
また、信玄の死を伝え聞いたとき、食事中だった謙信は箸を落とし号泣したという記録も残っている。
これらは後世の創作の可能性もあるが、剃髪して仏門にはいり、生涯妻帯をせず、少し変わり者ながら真面目一方だった謙信の人となりをあらわすエピソードであろう。
後に越後の虎といわれた武将上杉謙信は越後の守護代、長尾為景の四男、虎千代として享禄3年(1530)に生まれた。主君、上杉定実の正妻の甥にあたる。元服して景虎と名乗った。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継ぎ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られた。
天下統一のため関東進出を企てた出陣前、48歳で急死
越後の将となった謙信は、武田信玄や北条氏康、織田信長らと合戦をくり広げた。甲斐の国の武田信玄との5度に及ぶ川中島の戦いは天下統一の合戦ではないが、歴史に残る一大合戦となった。
天正6年(1578)、謙信は天下統一のため、まず関東進出を企てたが、出陣の2日前、3月9日正午、春日城内の厠に入って昏倒し、人事不詳に陥った。そして、13日の午後2時ごろ息を引き取った。48歳だった。
死因については、胃がんもしくは食道がんと脳卒中を併発したという説もある。このほか上杉謙信女性説に立って、女性特有の病気で亡くなったという珍妙な説もあるようだ。
明確でない部分はあるが、『上杉家文書』に「倒れたとき、うわごとなどをいい、言語障害の症状があった」という記述があることから、死因は再発性脳卒中(脳出血)とみられ、それが古今定説となっている。
『病気が変えた日本の歴史』(NHK出版・生活人新書)で、篠田達明氏は、
「わたしの推量では左大脳半球の言語中枢であるブローカ領域に出血が生じたと考えたい。謙信は10年前にも軽い脳卒中をおこし、以来、右足を引きずっていた。これは左片麻痺の症状なので、右の大脳半球に出血がおこったと思われる」との見方を示している。
一方、若林利光氏は、
「41歳のときに軽い発作を起こし、その後は手が震えて字を書くのが困難だった。右手に症状が出ているため、左の脳がダメージを受けていたことがわかる。(中略)このような経過から見て、脳卒中の中でも脳梗塞の可能性が高い」と述べている。
死因は脳卒中とみられるが、食道癌説も
『上杉謙信のすべて』(渡辺慶一、新人物往来社)には「逝去と死因」と題した一項目があり、死因に関する情報を載せている。
それによると、『平等寺薬師堂題書』には不慮の虫気と書かれている。『上杉謙信寿像裏書』には「蛾病で発病後(後略)」と記述されているが、この蛾病は中風説が多いという。『上杉米沢家譜』や『北越軍旗』にも中風と書かれている。
『松隣夜話』は、「天正5年(1577)冬の半ばより謙信公卿肉日を追って脱し、鉄丸の如くなるもの御胸につかえ、食物を吐き給うこと多日なり、その後は冷水の外、飲食遊ばれず」と記している。
『上杉謙信のすべて』では、「この松隣夜話のこの記事は謙信の直接の死因は中風ではないことを推察させるに十分なものといえよう」と述べ、次の2つの見解を紹介している。
1つは杉浦守邦白紙の説で、「当時の医学では卒中または中風という言葉は使ったが、脳卒中を称して中気ということはなかった、永禄八年(1565)36歳の時熱病で左脚風毒腫(関節炎)となり、死因は食道癌(もしくは胃の噴門癌)」と診断して誤りはなかろう」と述べている。
部類の酒好き、梅干しをなめながら大杯をあおった
もう1つは玉丸勇氏の説で、
「直接の死因はあくまで脳卒中で、食道癌は合併症と考えるのが妥当であるまいか」と述べている。
晩年、食べたものを吐いたということから、食道がんか胃がんを発症していたという説も根強いが、高血圧の持病があったことは確かなようである。高血圧が原因で脳卒中の発作を引き起こしたことが直接の死因と思われる。
謙信は無類の酒好きで、酒の肴をほとんど食べず、肴はもっぱら梅干しやイカの塩辛など塩気の強いもので、梅干しをなめながら大盃をあおった。他人と酒を酌み交わすという飲み方は好まず、縁側に一人坐って梅干しだけを肴に手酌で飲んでいたと伝わっている。
謙信は仏僧でもあり、謹厳実直で日常生活の規範も厳しくし、粗食を旨としていたという。高血圧は遺伝的要素もあるが、飲酒も粗食も塩分の多い梅干しも血圧を上げる要因である。
謙信の場合も、その生活習慣が血圧を上げる要因になったと思われる。花押や文字に震えがあるというから、そのことからも、アルコール依存症だったともみられる。
信義と仁愛に篤く、勇敢、無欲、清浄、廉潔、器量広く、慈悲深い高潔な人柄は、ライバルの信玄や氏康にも称えられたが、短所は短慮で激高しやすい性格だった。このことは謙信みずからも認め、気にしていたというが、この性格も高血圧と関係があったのだろうか。
前出の若林利光医師は、謙信は寒い中、戦で東奔西走しも数百里を走破した年も多く、寒さが脳卒中のリスクを高めたとの見方を示している。寒さは脳卒中や心筋梗塞の大敵である。
謙信亡き後、衰退の道をたどった上杉家
謙信は急な発作で倒れ、しかも意識が回復しないまま逝去したため、世継ぎを決めることもかなわなかった。ために、謙信の死後、越後領内は大混乱に陥った。生涯不犯(未婚)の謙信に実子はなく、養子の景勝と景虎の間で跡目相続の争いになり、越後の国が崩壊しかねないほどの大混乱になった。
結局景勝が跡を継いだが、この騒動が上杉家にとって大きな痛手となり、以後衰退の道をたどった。謙信の時代に獲得した加賀、能登、越中の大半は柴田勝家によって奪われた。
上杉謙信とライバル関係にあった信玄、氏康の3武将の戦法は、織田信長をはじめ当時の武将の追随を許さないほど卓越したものであった。信玄亡き後は、信長に対抗できる最後の1人だったともいわれる。
もし謙信が長生きをしたら、信長の天下統一は成らなかったという声もある。それにしても、信長にとって、信玄と謙信はなんとタイミングよく死んでくれたことだろうか。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。