病気と歴史 - 馬にも乗れない肥満体が狙われ、桶狭間の戦いに敗れた今川義元
三国同盟を結成し、上洛を目指し、尾張侵攻を開始
戦国武将、今川義元は永正16(1519)年に、足利氏の傍流、吉良氏の分家にあたる今川氏親の5男として生まれた。出家したが、天文5年(15361)、長兄の氏輝が急逝し、異母兄である次兄、玄広恵探と家督を巡って激しい争いを展開した結果、相続をした。
翌年、武田信玄と盟約を結び、駿府と遠江を支配し、さらに三河の松平氏から竹千代(後の徳川家康)を人質にして三河も手に入れ、3国を治める大守になった。
天文23年(1554)年には、北条氏、武田氏と婚姻関係を結んで、駿府、相模、甲斐の三国同盟を結成し、念願の上洛を目指した。
永禄3年(1560)5月、義元は2万5千の大群を率いて、信長の尾張の国への侵攻を始めた。義元の本隊は豊橋を過ぎ、桶狭間山に向かった。
桶狭間の戦いで討ち死に
途中、義元は、桶狭間北方の田楽狭間という窪地で兵を休めた。
形勢は今川軍にとって有利に展開しつつあった。分隊から次々と吉報が届き、上機嫌の義元は兵士を集めて酒宴を開いたが、この情報を信長は掴み、その隙を突いて奇襲をかけた。このとき豪雨が降り注いだ。
織田軍は服部小兵太が義元に一番槍をつけた。義元は小兵太の膝を切りつけたが、毛利新介に組み敷かれた。義元は新介の人差し指を食いちぎって応戦するが、新介に首をねじ斬られて絶命した。42歳だった。
田楽狭間は背の高い草が生い茂る、沼地の多い湿地帯だった。今川の兵が沼地に逃げ込み、泥だらけになって這い回るのを、織田軍の兵が追い、手に首を2、3個ずつぶら下げて帰っていった。
信長は情報を入手し、義元軍の虚を突いたが、豪雨がなかったら、信長の奇襲が成功する可能性は少なかったといわれる。
最強といわれた義元はなぜ信長に敗れたのか
戦国武将で誰が最強だったかは歴史マニアの関心事の一つであるが、義元最強説は根強い。なぜなら、当時最強と言われた武田信玄が唯一恐れていたのが義元で、だから信玄は義元を敵に回さず、同盟を結んだのだと。
わずか2,000名の兵で義元を破った信長は天下統一の足がかりをつかんだ。山田風太郎氏は、著書『人間臨終図鑑Ⅰ』(徳間文庫)で、「その日その日の時の一朶の黒雲は、義元のみならず日本の運命を変えたといわなければならない」と書いている。
馬にも乗れない肥満体が奇襲の的となった?!
一方、篠田達明氏は著書『日本史有名人の臨終図鑑2』(新人物往来社)で義元について次のように診断している。
「たしかに天運もあったが、信長は義元が馬にも乗れぬほど身動きできぬはなはだしい肥満症であるという情報を掴んでいた。ならば徹底して義元を狙えば勝機も訪れようと本陣への奇襲に踏み切った」
義元がでっぷりと肥えて、短足胴長だったことは確かなようである。「義元は肥満だから、徹底して義元を狙えば勝機も訪れようと、信長が奇襲を決行した」と篠田氏は述べているが、ほんとに信長はそういう読みをしたのだろうか。
それはともかく、それほどの肥満体なら、立派なメタボリックシンドロームであり、たとえ桶狭間の戦いで討ち死にしなくても、長生きは望めなかっただろう。
ちなみに、義元は戦も御輿に乗って移動したが、これは公家文化にかぶれていたからといわれる。馬に乗っていたという記録もあるようだ。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。