病気と歴史 - ポリオ発症も4選を遂げた米国大統領、フランクリン・ルーズベルト
ポリオ発症も、リハビリに励み、大統領選に勝利
米国第32代大統領、フランクリン・ルーズベルトは、1882年に名門の家に誕生し、ハーバード大学を卒業。弁護士を経て政界入りし、1920年の選挙では民主党の副大統領候補に指名された。
しかし、選挙では敗北。翌年には、ポリオ(小児麻痺)にかかった。下肢は麻痺し、回復しなかったが、リハビリに励み、鉄製の脚用補装具をつけ、人前に出る努力を続けた。そして、政界復帰を果たし、1928年にニューヨーク州知事に当選。1932年に大統領選に出馬し、勝利した。
恐慌対策で行動力と指導力を発揮
1933年3月、政権に就くや、ニューディール政策と呼ばれる一連の恐慌対策を打ち出すなど、目覚ましい行動力と指導力を発揮し、最悪の経済危機を乗り切ることに成功した。
病を克服したサクセスストーリーはアメリカ人好みであった。容貌はたくましく、明るく、それもまた、アメリカ人の期待を集める要因だった。
2選目の任期半ばの1939年、ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発した。当時のアメリカ世論は伝統的なモンロー主義であった。欧州とは、互いに干渉しない。ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相に支援を約束したが、民意を考慮し、国民を戦地へはやらないと演説した。
そういう情況のところへ、日本海軍がハワイ、真珠湾を急襲した。これを契機としてアメリカは参戦。足かけ7年に及ぶ第2次世界大戦は1945年に連合国側の勝利で幕を閉じた。
アメリカ勝利の立役者。4選を果たしたが、終戦を前に死亡
戦後、アメリカの発展は目覚ましく、ルーズベルトはその立役者のはずなのだが……。よく知られているように、大戦末期に米、英、ソ連の3首脳が戦後処理などについて会談(ヤルタ会談)を行ったが、この会談を開く場所について、ロシアのスターリンは策略を巡らし、アメリカ側を翻弄した。
スターリンは、ルーズベルトの体調が著しく悪化しているという情報を得ていた。実際、ルーズベルトは脳動脈硬化が進行し、精神活動は甚だしく低下していた。精神朦朧という末期症状を呈していたともいう。
ヤルタ会談では、必要がないソ連の対日参戦、中国大陸の共産化、戦後に東欧に敷かれた鉄のカーテンなど、西側には望ましくない決定がなされ、戦後、東西の冷戦状態が続くことになった。
ルーズベルトは4期目も選ばれ、1945年1月にはその就任式が行われた。しかし、同年4月、終戦を待たずに脳内出血のために死亡。63歳だった。
ポリオのワクチンが開発されたのは、1955年のことであった。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。