東 雑記帳 - 小百合も歌、うたうの?
昭和三十七年(一九六二)、六月。
「吉永さゆりも、歌、うたうんだって?」
「うん、レコード吹き込んだらしいよ」
こういう会話が学校や家庭でなされ、この話題でにぎわった。
学校では授業の合間、みーはーの芸能通男が、「おまえ、知ってるか? 吉永さゆり、歌、うたうんや」
「歌ぐらい誰でもうたえるだろう。なんで大騒ぎしてるの?」と思うのは後の時代のことで、そのときは誰もが吉永さゆりが歌をうたうということに感心したのだった。
「歌、うたえる?」は、「レコード歌手として歌う」ことを含んでのことだった。
吉永小百合はすでに青春映画のトップのスター女優だった。
この歌は「寒い朝」。
北風吹きぬく 寒い朝も
心ひとつで 暖かくなる
清らかに咲いた 可憐な花を
みどりの髪をかざして 今日も ああ
北風の中にきこうよ春を
北風の中にきこうよ春を
吉永小百合の歌声は、くぐもって少し濁っていて澄んではおらず、音程は不安定で、はかなげだった。しかし、それゆえ、趣きもあり、雰囲気もあった。
この曲は発売されるやヒットした。
実はこのレコードは和田弘とマヒナスターズとのデュエットだったが、自分の記憶からはマヒナはきれいに抜け落ちている。
和田弘とマヒナスターズは、すでに歌謡コーラスグループとしてヒットを数々出していたが、マヒナのことは頭になかったのだろう。そうか、そうだったなあ、といった程度である。やはり、吉永小百合が歌ったということがすべてだったのだろう。
昭和三十四年(一九五九)には、皇太子殿下がご成婚された。昭和三十年代の日本は高度成長期の坂を上りつつあった。『寒い朝』が発売になった昭和三十七年、ぼくは中学二年だったが、そんなことは全然認識していなかった。学校の成績は下がっていく一方で、特別やりたいこともなく、つまらなさと不安ばかりだった。『寒い朝』は女性の応援歌のような歌詞でもあり、男のぼくは自分の心を重ね合わせるということもなかった。
このレコードはトータルで二〇万枚売れたが、翌三十七年九月に橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』が発売されると、それ以上に大きな話題となった。橋幸夫は若手演歌歌手の第一人者の地位を築いており、吉永小百合とのデュエットは一般の人にとっては意外に思える組み合わせだった。しかし、庶民はこぞって歓迎し、口ずさんだ。
ウィキペディアで調べると、この曲は「発売一カ月で三〇万枚が売れ、翌年五月には百万枚を突破、累計売上枚数二六〇万枚に上った」とある。
『いつでも夢を』
星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも歌ってる
声がきこえる 淋しい胸に
涙に濡れたこの胸に
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
橋幸夫は、歌い方も声もシャープでキレがよく、安定している。
吉永小百合とのデュエットは不似合いの似合い、不調和の調和といってもよいハーモニーを奏でていた。
詩もよかったが、といって、励まされ、「夢を持とう」と思ったわけでもなかった。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。