【虫のせい】- 現代に使いたい日本人の感情、情緒あふれる言葉
森本哲郎著『日本語 裏と表』(新潮文庫)に次のようにある。
日本人の身体のなかには虫が棲んでいるらしい。しかし、どんな虫なのか、だれも見た者はいない。正体不明なのだが、とにかく、身体の一定の場所にじっとひそんでいて、何かの折りに不意に動きだす。
体内の一定の場所といったが、そこがどこなのかもはっきりしていない。たぶん、お腹のあたりなのであろう。ふだんはそこにおとなしくしているのだが、いったん暴れだすと、もう手がつけられなくなる。
(後略)
腹の中に虫がいる。腹の虫は人間の気分を支配すると考えた。腹が立つのも虫のせいで、
「腹の虫が収まらない」「腹の虫が承知しない」。「自然と腹が立って来るのを押さえることが出来ない」のである。
日本人は、病気になるのも虫のせいと考えた。感情も虫が動かするので、虫の居所が悪いと、機嫌が悪く、ちょっとしたことも気に障る。小児の疳は疳の虫が引き起こす。なんとなく気にくわないのは「虫が好かない」「虫が嫌う」から。
どれもこれも、虫のせいなのである。
だから、かつては、浮気が妻に発覚したときも、「浮気は虫のせい。ぼくが悪いんじゃないんだよ」と見え見えの言い逃れをする剛の者もいた。
妻は、「どうして虫のせいなのよ」と難詰してくるが、それに対して、
「体内に棲む虫は生き物だからね。小さくても自己運動して浮気をもたらしたんだよ」と言い逃れようとしたが、
「そんな虫のいい話が通るわけないでしょ」と、はねつけられた。
よくできた話であるが、実際、虫のせいにした男がいたのだろう。
他にもいろいろな使い方ができる。
「ちかごろ、太ったんでじゃない」
「虫のせいかなあ」
「あなた、最近、覇気がないわねえ」
「うん、虫のせいかなあ」
「課長にまた怒られたよ」
「最近、いつも虫の居所が悪いようだからね。虫のせいだから、気にするなよ」
覚えておき使いたい言葉であるが、深刻な場面で不用意に使うのは避けたほうが無難な場合もあると思う。会話を楽しむ言葉として活用するとよいだろう。
ちなみに、『戦国時代のハラノムシ 「針聞書」のゆかいな病魔たち』(長野仁・東昇〔編〕国書刊行会)では、三十二匹すべての虫のすべての図を収録し、その虫がどこにいるか、どんな特徴があるか、どんな病気を引き起こすか、どのように治療するかなどを紹介している。
ハラノムシのいる場所については、次のように書かれている。
「ハラノムシの『ハラ』は寄生虫の多くが棲息する消化管(胃腸)に代表される六腑のことであり、その奥に鎮座する五臓であり、内臓が収まる胴体の前面ということになります」
虫の病気が初めて記録に登場するのは戦国時代十五世紀で、当時の人々は、これらの虫は想像上の産物ではなく、本当に実在すると誰もが信じていたという。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。