病気と歴史 - 虫垂炎で急死。双葉山に再度勝つ機会は失われた、横綱玉錦
昭和の大横綱といえば真っ先に名前が上がるのは六十九連勝という不滅の大記録を持つ双葉山だが、双葉山時代の到来前、最強力士は玉錦三右衛門だった。
大相撲の歴史を振り返ると、江戸時代に江戸相撲が花開いたが、大阪相撲や京都相撲も盛んだったし、広島や名古屋、仙台にも相撲はあった。それが明治、大正と時代が下るにつれ、勢力図は東京がいちばんで、これに大阪相撲が追随するという形となった。
昭和になる前には京都角力は衰微いちじるしく、大阪相撲に吸収されていた。昭和二年(一九二七)、東京大角力協会と大阪角力協会が合併し、大日本大角力協会が発足。一本化され、一団体となった。
けれど安定はしておらず、昭和七年(1932)一月場所前に関脇天竜らが相撲協会の改革を求め、東京・大井の中華料理店に春秋園に立てこもる事件が起きた。これは、春秋園事件とも天竜事件とも呼ばれる。
しかし、協会は要求に応じず、天竜らは脱退し、新興力士団を結成した。残った力士の一部も、それとは別の新団体「革新力士団」を旗揚げし、事態は泥沼化した。結局、関取六二人中、四八人が脱退。両者は大日本相撲連盟を結成し、興行は人気を博した。
この一連の騒動のとき、玉錦は協会に残り、昭和七年十月場所後に第32代横綱に推挽された。八年春(1月)場所から七場所中、四場所優勝。十年春(1月)場所から十一年春(1月)場所まで3場所連続優勝を飾り、玉錦時代を築いた。
「タマニシキャ負けない」と言われるほどの無敵だった。
玉錦は大正五年に両親の反対を押し切って入門したが、小兵のため、規定の体重に達して初土俵を踏んだのが八年一月だった。
体といい足腰といい、素質的に恵まれなかったのに大成できたのは、ひとえに桁外れの強情、我慢と稽古好きによるものだった。猛稽古のため傷だらけで、ボロ錦とあだ名を付けられるほどだった。
また、ケンカ玉と言われるほど喧嘩っ早く、しょっちゅうしていた。それも、並のレベルではなかった。
●現役横綱として、三十六歳で
十一年春(1月)場所の時点で通算9回の優勝を飾っている。しかし、新人が彗星のごとく台頭してきて、やがてその地位を覆される。その新人が双葉山だった。
七年に春秋園事件が起きたさい、十両の力士の多くは幕内へくり上げられた。双葉山もその一人で、十両から幕内四枚目に上がった。その後、幕内上位に定着。十一年春(1月)場所は九勝二敗で、優勝した玉錦に次ぐ好成績を挙げた。この場所、六日目に玉錦に破れたが、七日目に白星を挙げ、ここから六十九連勝が始まった。
十一年夏(5月)場所、玉錦は初めて双葉山に敗れた。以後、十二年夏(5月)場所から十三年夏(5月)場所まで三場所、玉錦は双葉山と接戦をくり返したが、勝てなかった。そして、それは相撲人生最後までかなわないことになる。
十三年秋、玉錦は大相撲一行とともに九州巡業に出かけた。宮崎から大阪へ向かう途中、急に腹に激しい痛みを訴え始めた。船員が気を利かせて、四国・今治で医師を待機させ、上陸の段取りを整えたが、玉錦はそれを拒否し、「冷え腹に違いない」と、付け人に蒸しタオルで腹を力一杯もませて凌いだ。
到着地の大阪・天保山に着き、大阪大学の教授の診察を受けたが、一刻を争う容態だった。大阪日生病院で手術を受けたが、すでに虫垂炎から腹膜炎を併発していて、既に手遅れの状態で、十二月四日に逝去した。三十四歳だった。
術後、玉錦は、「喉が渇いた」と言って、氷嚢に入っていた氷をボリボリ囓るなど、医師の言うことを聞かなかった。腹膜炎が術後悪化したとも伝えられている。
当時、双葉山は連勝を続けており、七十連勝がついえたのは、十四年の春(1月)場所の四日目だった。もし、玉錦は、このとき急逝しなかったら、その後、双葉山に勝てたのだろうか。この場所、双葉山は15番のうち4敗している。玉錦は勝てたかもしれないが、双葉山の天下は揺るぎなかったのではないだろうか。
急逝したとき、玉錦は所属する部屋、二所の関部屋の親方も兼ねていた。急死に伴い、部屋は現役関脇力士の玉の海梅吉が次ぎ、二枚鑑札となった。
その次に玉の海のしこ名を継いだのが昭和二十年代から三十年代にかけて活躍した玉乃海代太郎(玉の海から玉乃海に改名)だった。玉乃海は引退後、年寄り・片男波を襲名し、のちに二所の関部屋から独立した。その際、玉乃島をはじめ関取を数人連れていったが、そのうちの一人にのちに横綱にまで上りつめた玉乃島(横綱昇進時に、玉の海に改名)がいた。
●三代後に再び、現役横綱が同じ虫垂炎で急逝
この玉の海が、なんとあろうことか、横綱昇進の一年半後、力がいよいよ充実してきたとき、虫垂炎の手術のさいに急逝してしまう。虫垂炎で急死した玉錦から数えて三代後の玉の海がまた、虫垂炎で急逝したのだから、何か因縁が感じられなくもないではないか。
玉の海が入院していたのは都内の有名病院で、術後に肺血栓症を併発したのが原因で亡くなったと報じられた。
しかしその後、真相は麻酔による事故死だったという情報が広まった。大学病院に籍を置いていた麻酔科のある医師から、「あれが麻酔のミスだったというのは麻酔科の医師のあいだでは有名な話ですよ。今だったら、遺族に訴えられたでしょうね」と聞いたことがあった。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。