東 雑記帳 - 土曜日が半ドンだった時代
かつて、会社は日曜だけが休日で、土曜日が昼まで勤務の半ドンだった。そういう時代があった。
半ドンを最後に経験したのは、昭和五十年頃だっただろうか。
当時、東京・御徒町にある家具・インテリアの業界誌で記者兼広告取りとして働いていた。
記者として採用されたが、入社してみてわかったが、仕事は広告取りが主体だった。
すでに高度成長期は終わっていて、その数年前までは、家具はつくれば売れる時代だったと聞かされた。
それでも昭和五十年当時、バブルに始まる頃で、家具インテリアの業界誌(紙)は三十ぐらいあっただろうか。
中小の業界誌(誌)は底辺の社会で、広告取りを転々としてきた者、新聞記者崩れなどがいた。作家崩れや作家志望もいて、編集長は元少女雑誌の副編で、文芸誌の新人賞に応募し佳作に選ばれたという過去が自慢だった。
編集と広告の社員は編集長を入れて八名で、そのうち四人はW大学出身で、他の二人も六大学やそれと並ぶ伝統校の出身だった。
けれど、全員が社会の落ちこぼれであり、自分から下降していく気質のようであった。
覇気のある者はいなかった。
こんなところにいつまでもいけないと考えている者もいたが、とりあえずはここにいると楽なものだから、安い給料を我慢しても居続けていたのだった。
記者が出社するのは誰もがたいてい十時過ぎで、自分も十時十五分頃に顔を出した。途中で缶コーヒーを購入し、自分の席につくとまず飲むことから一日が始まるのだった。そして、仕事に取りかかるが、十一時頃には弁当を出して食べる。給料が安いので弁当持参の者が何人かいたが、誰もが早弁をする。
それを見て編集長が、「一人前に仕事もできないのに遅くきて、すぐに弁当を食べる。だいたい、君たちの文章は幼稚なんだよ」と、聞こえよがしにぶつくさ言っていた。
土曜は半ドンだから、十二時になればそそくさと帰り支度をする。
ある者はアメ横の乾物屋や米軍放出衣料の店を冷やかす。飲み屋に行くには時間がはやいが、フーゾクに行く者もいた。
半ドンは、会社を出るとなんともいえない開放感に包まれる。良き時代だった。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。