東 雑記帳 - 昭和41年、テキ屋のおじさん

東 雑記帳 - 昭和41年、テキ屋のおじさん

高校三年のときのある日、学校帰りに駅の周りをうろついていたら、テキ屋が地べたに売り物の駄物を広げ、口上を述べていた。タンカ売である。
売っていたのは、教師が黒板を指し示す棒のようなもので、二段階か三段階、伸びて長くなるという代物だった。
「これを持ってキャバレーに行って、おねえさんのドレスをこれでまくったら、もてること間違いなし!」などと、くだらないことをまくしたてていた。
この棒は一時期流行った。

テキ屋は三十歳前後か、三十代か、皮の帽子をかぶり、ダボシャツの上に背広を着て、雪駄履きだった。映画のフーテンの寅さんの出で立ちだったが、それは現実のテキ屋をモデルにしたからに他ならなかった。当時はまだ、このようなテキ屋ファッションはそこかしこで見たし、組関係の者も同じような格好をしており、区別はつかなかった。余談であるが、純粋なテキ屋の他に、テキ屋を生業とする組関係の者もいた。

次の日も学校帰り、昨日テキ屋がいたあたりに行くと、やはり同じ場所でタンカ売をしていた。自分のほかに見物はいなかった。
こちらに気づくと、
「ぼく、昨日も来てたな」と話しかけてきたので、頷いて、
「おじさん、また明日もここで売るの?」と聞いたところ、
「ああ、もう三、四日いる。G組にわらじを脱いでな」と、聞かれもしないことまで喋りはじめた。
「そこに泊まっているの!」
「いやいや、そのへんの木賃宿」
「奥さんは」
「それは、行く先々の女が皆女房だよ」
(奥さんのことを女房といったのが、それとも業界の隠語で言ったのか、今では忘れてしまった)

このおじさんは純粋なテキ屋だったが、商いをする上では組関係の支配下にあったのだろう。
G組はこの地方では有力な組であり、このテキ屋は軽く扱われているようだった。わびしさが漂ってくるような受け答えだった。
これでは、映画の寅さんと同じではないか。
映画「男はつらいよ」の一回目が公開されたのが昭和四五年の正月で、その土台となったテレビ版の「男はつらいよ」の放映が始まったのが昭和四三年だった。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。