病気と歴史 - 抱月と須磨子の愛を突如終わらせたスペイン風邪
新劇運動の指導者、島村抱月
日本における新劇運動の指導者である島村抱月は、明治4年(1871)に島根県で生まれた。早稲田大学の前身である東京専門学校で坪内逍遙の指導を受け、その影響から文学や美学に興味を持つようになった。東京専門学校を卒業後、抱月は母校の講師となり美辞学などの講義をするかたわら、『読売新聞』の「月曜付録」を主宰した。明治35年(1902)から早稲田の海外留学生としてイギリス、ドイツに留学し、美学や心理学を学びながら演劇と音楽に強くひかれていった。
ヨーロッパから帰国した直後の明治39年(1906)、抱月は東京専門学校時代の恩師坪内逍遥とともに文化革新運動を目指して文芸協会を設立した。さらに『早稲田文学』を復刊し、自らも自然主義文学を擁護する論陣を張ることで文壇に大きな影響を与えると同時に、近代文芸批評の確立者となっていった。
明治42年(1909)、文芸協会は演劇研究所を開設し、俳優の養成をはじめた。ヨーロッパでの多くの演劇をみてきた経験をもとに、イプセンの『人形の家』などの演出にあたるようになった抱月は、近代劇路線を歩みはじた。そのため、坪内逍遥の穏健な国劇改良路線と対立することになった。さらに同じ頃、演劇研究所出身の女優松井須磨子との恋愛問題が表面化したため、抱月は文芸協会の幹事を辞任した。
欧州近代劇普及のため、2人は芸術座を結成。トルストイの『復活』が一世を風靡
大正2年(1913)、恩師坪内逍遥と決別し、母校の教職と家庭まで捨てた島村抱月は、松井須磨子と芸術座を結成した。翌年、トルストイの『復活』が爆発的な大当たりをした。
松井須磨子は大正8年(1886)に長野県松代に生まれた。17歳で姉を頼って上京し、初婚に破れ、東京俳優学校の英語教師松沢誠助と再婚した。明治42年(1909)に演劇研究所の第一期生となり、女優に専心するため再び離婚した。
抱月は早稲田の恩師、坪内逍遥との関係から新劇運動にかかわるようになり、日本で欧州近代劇の普及に努めるために松井須磨子と共に芸術座を設立した。新劇は能、狂言、歌舞伎などの古典劇や新派劇に対抗して付けられた名称で、芸術志向的な演劇を目指した。
芸術座は大正3年(1914)からトルストイの小説をもとにした『復活』を上演し、大評判になり、各地で興行を行い、講演回数は440回にも及んだ。須磨子が歌う劇中歌「カチューシャ」の歌は大ヒットし、新劇の大衆化に貢献した。高踏的な劇を大衆に広めた功績は大きい。劇中歌のヒットだけでなく、カチューシャ・リボンやカチューシャ留めなどが流行したことからも、国民を挙げての人気だったとわかる。しかし、このころから、抱月が演出する新劇はしだいに通俗なものに向かっていった。
前述したが、抱月と須磨子は恋に落ち、抱月は家族を捨てて須磨子と同棲した。現代にいう不倫である。それはスキャンダラスな話題となり、須磨子は新しい生き方をする女性として世間を騒がせた。抱月が演出した『人形の家』の主役ノラを演じた須磨子は、まさに新しい女優の出現を思わせるもので、松井須磨子の名声を決定的なものとした。
須磨子の流行性感冒が抱月に感染し、抱月は逝去。須磨子は後追い自殺
栄光に包まれ、愛を謳歌していた抱月と須磨子であるが、突如終演が訪れる。大正7年(1918)10月、有島武郎原作の「死とその前後」の上演を終えたばかりのとき、須磨子が当時世界中に流行していた流行性感冒にかかり床にふせた。抱月の手厚い看護もあってよくなったが、抱月に感染した。
医師は入院、加療を勧めたが、須磨子は抱月を抱月の家族に取り返されるのではないかと恐れ、入院させなかった。須磨子は看護に手を尽くすが、薬石効なく11月5日、抱月は肺炎を引き起こして亡くなった。47歳だった。わずか6日間床に伏せただけのあっけない死だった。
その抱月の死からわずか2ヵ月後の1月5日、抱月の祥月命日の日、須磨子は抱月の後を追って芸術倶楽部の舞台裏で自殺をした。32歳の若さであった。須磨子は、生き方は新しい女性だったが、死に方は古い女性の典型で、愛に殉じ、大正ロマンを具現したと言われた。しかし、当時の文筆家はここぞとばかり須磨子を批判した。ただ1人、平塚らいちょうのみ、「彼女は死によって一個の美しい愛をまっとうしたのです。死によって彼女は夢の世界に永久に生きたのです」と称えた。
流行性感冒は抱月と須磨子の道ならぬ愛に終止符を打ち、2人の将来と命を奪い、2人は添い遂げられなかった。
第一次世界大戦の終戦を早めたといわれる、パンデミック
このときの流行性感冒は、スペイン風邪と名付けられたインフルエンザであった。大正7年(1918)の冬から翌年にかけて発生し、全世界に流行したパンデミックで、まるで14世紀のペストを思い出させるような勢いで人類を襲った。
スペインかぜで命を失った人は3000万人とも5000万人ともいわれている。日本でも2300万人がスペインかぜにかかり、死者は38万人を超えた。当時、ヨーロッパは第1次大戦中であったが、インフルエンザはその戦死者をはるかに超える人間の命を奪い、終戦を早めたといわれる。
抱月亡き後、大正十13年(1924)年には小山内薫、土方与志らが新劇運動の拠点として築地小劇場を建設。戦後も新劇は宇野重吉や杉村春子らの役者を輩出し、今日へと続いている。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。