病気と歴史 - 関節リウマチの痛みに苦しんだ、万葉歌人で遣唐使の山上憶良
滅亡の百済から戦火を逃れて日本へ渡来
「銀も金も玉もなにせむに優れる宝子にしかめやも」
あまりにも有名なこの歌を詠んだのは、万葉歌人の代表的な1人の山上憶良(斉明天皇6=660年~天平5年=733年頃)である。
憶良は大伴家持、柿本人麻呂などの宮廷歌人と違って、下級貴族の出身とされているが、百済系渡来人説があり、こちらの説のほうが正しいようだ。
その説に従えば、憶良は百済王朝の薬師(侍医)をする家に生まれた。百済が滅びたのは天智天皇2年(663)年で、憶良が4歳のときに一家は戦禍を逃れ、日本へ渡ってきた。
歌人として数々の歌をものにするが、不遇をかこっていた。42歳のときに千載一遇のチャンスが訪れた。702年の第7次遣唐使の一員に選ばれたが、官位も姓もない彼が登用された背景に大陸に関する知識と優秀な語学力にあった。
唐で儒教や仏教の最新知識を学んで帰国後、東宮侍講を経て、伯耆守、筑前守など国司を歴任しながら数多くの歌を詠んだ。
関節リウマチの痛みに苦しむ
当時、日本は決して平穏だったわけではなく、下層階級の人たちは困窮と飢えに苦しんでいた。 憶良は儒教や仏教に傾倒していたためか、貧、老、病、死などに向き合い、かつ社会的な矛盾に目を向け、社会的弱者を鋭く観察した歌を数多く詠み、異色の社会派歌人でもあった。
また、冒頭に取り上げた歌からも、子煩悩の人情家であったことがうかがえる。60歳目前、憶良は臣を賜り、従五位下に叙せられた。栄達をしたのだが、60歳を過ぎてから四肢の節々の痛みに悩まされるようになった。慢性関節リウマチだったと思われる。
733年に逝去したが、万葉集に「沈痾自哀文(痾に沈みて自ら哀しむ文)」と作品を書き残している。
「四肢動かず百節みたいないたみ、身体はなはだ重く、なお鈞石を負うえるがごとし。布にかかりて立たむとすれば翼折たる鳥のごとく、杖によりて歩まむとすれば足跛えたる驢のごとし」
「善行と信仰に努めている自分がなぜ、こんな重病になるのか」と憤る
72、3歳頃まで生きたので、こういう状態が10年以上も続いたものと思われる。占い師や祈祷師にも頼ったが、苦しみは増すばかりで、癒えることなく、最後には、
「殺生の中に暮らしている人間でさえ安らかな生活を送っているのに、日夜善行と信仰につとめている自分がなぜこんな重病になるのか」と憤り、また、「仰ぎ願わくば、この病気を取り除いてくれるならば、ねずみにたとえられてもかまわない」とさえ哀願している。
ちなみに、この作品で憶良は、中国の医学者の話からさらに、病とは、死とは何かとの考証を綴っている
現代なら痛みを緩和・解消する方法が見つけられるはず
関節リウマチは、自己の免疫細胞が自分の組織(関節)を敵だと見誤って攻撃する自己免疫疾患である。慢性的に免疫が過剰に働き、攻撃された関節に炎症が起こり、痛みを引き起こす。
ではなぜ、こういうことが起こるのか。原因不明ということになっているが、細菌やウイルスの感染、過労やストレス、喫煙、出産やけがなどをきっかけに発症することがあると考えられている。
とは言え、上咽頭の慢性感染を治療すると治癒するという報告もある。口で呼吸する習慣を改めたら症状が治まったという報告もあるが、これも細菌感染が解消するためだろうか。
リウマチの人の腸内細菌叢には、特定の細菌が見られるとの研究報告もある。菜食の超少食にしたら、痛みがまったく消えたが、1年後に普通の料理を食べたら翌日、指の関節が変形した、という体験も聞いたことがあった。
前述のように、憶良は、「殺生の中に暮らしている人間でさえ安らかな生活を送っているのに、日夜善行と信仰につとめている自分がなぜこんな重病になるのか」と憤ったが、現代においても、こういう捉え方をする人は多い。いわゆる善人だろうが、憶良も善人だったのだろうと感じさせられ、親近感がわくが、病気になるかならないかは、善人・悪人は関係ないだろう。
もし憶良が現代に生きているなら、情報を収集・分析し、適切な対応法を見つけ、痛みを緩和・解消、あるいはコントロールすることができるのではないだろうか。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。