病気と歴史 - ブレークスルーして天才となったゲーテ 生き方と人生も波乱万丈だった
リベラルな人間中心主義の時代に生まれる
かつては、青春の一時期にゲーテの小説『若きウェルテルの悩み』を読んだものである。ドイツ人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832年)は詩人、小説家、劇作家、自然科学者、美術研究家であり、またワイマール公国の要職にあった政治家でもあった。
ゲーテは、1749年にフランクフルト・アム・ワインの裕福な家庭に生まれた。百科事典的に解説すると、ゲーテの人生はしばしば、1つの時期概念としてゲーテ時代と呼ばれる。
それは政治的、経済的、文化的激動の時代であった。ドイツが三十年戦争(1618~1648年)の荒廃から立ち直り、封建的貴族階級が徐々に衰退していく過程で富裕な市民階級が台頭してくるリベラルな人間中心主義の時代であった。
そのさい、市民階級出身の有能な青年たちが拠り所としたのは何よりも学問的な知識、教養であった。
文芸、芸術で業績を上げる一方で、共和国の宰相に上りつめる
ゲーテも、父親によって宗教教育と家庭教育を厳格に仕込まれ、幼少のときから古今東西の人文的教養を身につけることができた。25歳のときに自らの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』を出版し、また生涯をかけて書き継がれることになる『ファウスト』にもこのころ着手した。
一方で、政治家として数々の要職を歴任し、33歳で貴族の称号を与えられ、ついにはワイマール共和国の宰相にまで上りつめた。
斎藤孝氏の『天才になる瞬間』(青春出版社)は、「自分の中の未知能力をスパークさせる方法」というサブタイトルからもわかるが、天才になる習慣術や発想術、人生術を紹介している。同書でゲーテも取り上げ、ゲーテについて、
「仕事の重圧感を『人生最高の贈り物』と言い切るほど、政治家としての人生は充実したものだった」と書いている。しかし、この時点では、まだ彼は天才ではなかったというのである。
37歳のときのイタリア行で文学の才能を昇華させる
ゲーテは、ワイマール公国の君主アウグスト公にも自分の妻にも行き先を告げず、それまで築いてきた地位や名声や財産をすべて捨て、逃げ出すようにして祖国を後にし、イタリアへ旅立った。1786年九月、37歳のときであった。内密にしたのは、そうしなければ旅に出ることはとてもかなわなかったからである。
何のためだったのか。政治家として出世してしまったゲーテだったが、ほんとうに自分の才能を爆発させたかったのは政治ではなく文学の分野だったという。それは命さえ捨てる覚悟の逃避行で、ゲーテはイタリアに滞在した約二年間で一級品の美術、文化、人と出合い、文学の才能を昇華させたのだった。
医師の目から見るとエキサイティングな病歴
ゲーテのような大天才の作品は凡人には理解は難しいが、ゲーテの人となりはまたとてもユニークだったようである。『天才たちの死に学ぶ』(西義之、文藝春秋)によると、
ゲーテの病歴は医師の目から見ると興味あるもので、根本的にみてエキサイティングな病理誌であるとさえいう研究者もいるという。
といって、ゲーテが病気がちだったかというと、そうとはいえない。
酸欠状態で誕生し、生存できたのは奇跡だったといわれる。生まれて間もなくハシカ(麻疹)にかかり、風疹を病み、それが回復すると7歳のときに天然痘で苦しんだ。
19歳のときに激しい吐血に見舞われ、回復したのは20歳になってからだった。このときの健康状態についてのちに、たんなるヒステリーから梅毒に至るまで多種多様な解釈がなされてきた。
診察した医師たちの見解では、吐血ではなく喀血であった。つまり、結核性の出血であった。しかし、ゲーテ研究家の1人の医師は胃潰瘍か十二指腸潰瘍の確率が高いとの見方を示している。それを裏書きするのが嫉妬心で、ゲーテは嫉妬深く、妻に対してしつこく浮気をするなと戒めていた。ストレス性の消化器潰瘍ということなのだろう。
ゲーテは、病気の創造的で意味深い面を倦むことなく賞賛したという。シュトラースブルグ大学に入学後、ほとんど医学生とだけつき合い、医学部の教授を訪問したり親しく話を聞いたりしたし、当時の指導的な医学書を読みふけったという。
中年から病気続き、相当太っていた
その後のゲーテはまったく健康だったというわけではなく、老いの兆候は忍び寄り、持病として便秘と喉の痛みもあったし、歯の調子も悪かった。52歳のときの1800年の暮れから新年にかけて、ゲーテは倒れた。一時は助からないかと思われたほど病状は重かった。
痙攣性の咳と丹毒の症状が同時に現れていると診断された。丹毒は現代医学からみると判断に困る症状であるが、ゲーテの場合は顔の丹毒と思われ、それは歯槽膿漏によるものかもしれないと推測されている。
このころのゲーテは相当太っていて。この52歳のときの病気は、精神的な抑鬱状態を伴いながら60歳まで続き、そこに腎臓(尿道結石)の病気とリウマチ(関節炎)が加わっていった。
実はゲーテは女性好きで女遍歴をくり返した。大食漢のグルメで、肉料理を好んだし、甘いものにも目がなかったという。ワイン大好きで、1日に2~3リットルも飲んだ。ゲーテはワインに健康増進の効果を認めていたというが、ただの酒飲みとしか思えない。ビールは、ドイツ人のくせに嫌いだった。
一方で、ゲーテは鉱泉へよく療養に行き、鉱泉水を飲んだ。彼によれば、間違いなく効用があるとのことだったが、その療法期間中はワインの量が減ったのだから当然かもしれない。また、タバコを、「人間を愚かにする。思考力と詩作力を奪う」と嫌った。「喫煙するやつの部屋に長居して、瀕死しない人間がいるだろう」とまで言っている。嫌煙派の急先鋒だ。
70代半ばで19歳の女性に恋をしたが、結婚の夢はかなわなかった
前述したように、ゲーテは50歳のころには相当肥満していた。52歳のときの病気も60歳のときの関節炎と尿道結石も暴飲暴食とその結果の肥満が原因と見られている。
その後、糖尿病も無発症し、74歳のときには心筋梗塞にかかった。
67歳のときに妻を亡くしたが、70代半ばにして19歳の女性に恋をし、結婚したいと思い、その母親に、「娘をくれ」と伝えたが断られ、この夢は実現しなかった
ゲーテが亡くなったのは83歳で直接の死因は気管支炎だった。芸術の大天才は生き方も天才的で、このとき亡くならず、さらに長生きをしていたら、どんな作品と人生ストーリーを後世に遺してくれたのだろうか。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。