病気と歴史 - メンデルの法則が評価されたのは、肝臓病で死んだ35年後だった

遺伝子の扉を開く 

現代において、遺伝子は遺伝子治療やバイオテクノロジーなど最先端技術の担い手として脚光を浴びている。IP細胞は遺伝子治療の期待を一身に担い、この細胞を発見した日本人研究者・ノーベル賞を受賞した。遺伝子はDNAという化学物質であるが、19世紀半ば、遺伝学の扉を開き、基を築いたのがグレゴール・ヨハン・メンデルであった。

メンデルは1822年7月22日、オーストリア帝国のモラビア地方の小村ハイツェンドルフ(現在のチェコ、ハインツァイス)で生まれた。生家は小さな果樹園がある貧しい小作農だった。幼いころに父親が倒れた木の下敷になって死亡するという不幸に遇い、一家は農地を売らなくてはならなくなった。
ライプニクのピアリスト学校、トロッパスウのギムナジウム(中等教育機関)を経て、苦学をしながらも1840年にオルミュッツ大学哲学科に入学した。ここを卒業し、ブリュンの聖トマス修道院に推薦された。この修道院はモラビア地方における芸術や科学の中心的な存在だった。ここで学び、メンデルは植物学や数学の能力を開花させ、やがて近くの中学校で代用教員を勤めるようになった。1834年に聖アウグスチノの修道会に入会し、モラヴィア地方の修道院に所属した。

教師を志すも、正教員の検定を2度も落ちる

聖トマス修道院に入った翌1844年からはブリュン神学校の聴講生になり、1847年には司祭に推薦された。また、このころから科学を独学で学ぶようになった。その後、短期間であるが、ツナイムのギムナジウムで数学とギリシャ語を教えた。
本分、本業は修道士であったのだが、聖職者より教師のほうが自分に適している考えたメンデルは、正教員になるための検定試験を2度にわたって受けた。しかし、いずれも不合格に終わった。
1851年にウィーン大学に留学し、ドップラー効果で著名なC.ドップラーから物理学と数学を、またF.ウンガーから植物の解剖学や生理学、動物学などを学んだ。2年間の留学ののちブリュンへ帰り、1868年まで高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の試験を受けるが、合格できなかった。

修道院生活の中、自然科学に興味を持ち、植物の交雑実験を開始

メンデルが自然科学に興味を持ったのは、1847年に司祭として修道院生活を送るようになってからだった。メンデルは、当時問題となっていた種の変化性に関心を示し、1854年より植物の交雑実験の準備にとりかかった。
そして56年から修道院の庭の一隅を借りてエンドウマメの研究を始めた。修道院でさまざまの動植物を飼育栽培して研究したのだが、なぜ修道院でこのようなことができるのかと不思議に思われるが、この地方は古来家畜と農業の中心地で、それに益する研究はこの修道院で重んじられていたのである。
この研究を1862年まで続けたが、当時、植物学者の関心は植物の分類や品種改良にあり、メンデルのように遺伝の法則に興味を持っているものはいなかった。

メンデルの法則を発見するも、科学者に無視される

エンドウマメを材料に遺伝の研究を続けたメンデルは1865年に「植物の雑種に関する実験」と題する論文にまとめ、ブリュンの自然研究会の席上で発表した。43歳のときであった。のちにメンデルの法則といわれるようになった発見である。
翌年、それは紀要として印刷され、大学や研究所に送られたが、メンデルの研究を理解できる科学者は1人もいず、無視された。メンデルのエンドウマメは、修道院の食卓でしか価値を認められなかった。

小学校の生物の授業で教えるが、メンデルの遺伝の法則は「分離の法則」「優劣の法則」「独立の法則」の3本柱から成り立っている。メンデルの研究が無視された最大の理由は、メンデルが実験データを数学的に処理するという、当時の生物学者がまったく気がつかなかった方法で研究したからである。
それを証明する出来事を紹介すると──。メンデルは当時の植物学のリーダーだったミュンヘン大学のネーゲリから、エンドウマメでなくミヤマコウゾリナを実験に使ったほうがいいとアドバイスされた。その助言にしたがって、ミヤマコウゾリナの実験を行ったところ、メンデルは目を悪くしてしまった。

晩年は修道院院長に専念。偉大な科学者と思われないまま逝去

1868年、メンデルは聖トマス修道院の院長に選ばれ、急に多忙の身となった。院長としての雑用に追われ、遺伝の研究を続けることができなくなった。メンデルは何事にも生真面目手で、1874年にオーストリア議会が修道院から徴税する法律を制定した際には、反対闘争に立ち上がり、死ぬまでの10年間修道院への課税を撤回するために全力を傾けた。
政府は修道院を弾圧し、修道院の関係者は次第にその圧力に屈していったが、メンデルは院長として激しく抵抗し、周囲から孤立した。メンデルの側からすると周囲の人々に裏切られたのだった。メンデルは本来、誰もが好意を抱く気品があり、性格も明るく、友情に篤かった。それが次第に人を信じない気むずかしい老人となっていった。

やがて肝臓病にかかったメンデルは、誰からも偉大な科学者と思われないまま、1884年1月6日に肝臓病でこの世を去っていった。肝硬変か肝臓がんだったと思われているし、心臓病を患っていたといわれる。62歳だった。
メンデルは、自分でさえ偉大な発見をしたとは信じていなかったといわれが、たった一度だけ「私の時代がくるだろう」と述べたといわれている。19世紀に生きたメンデルであるが、その頭脳は20世紀に生きていたのかも知れない。

後日談になるが、メンデルの研究は、発表されてから35年後の1900年、オランダのド.フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの3名の学者によって、再発見されることになった。メンデルが近代遺伝学の出発点として評価されたとき、人類は20世紀を迎えていた。メンデルが生前に栄誉に浴するには、亡くなるのが35年早すぎたのだった。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。