病気と歴史 - 天皇家分裂の張本人、足利尊氏 虫に刺されたことが原因であっけなく死亡した

病気と歴史 - 天皇家分裂の張本人、足利尊氏 虫に刺されたことが原因であっけなく死亡した
後醍醐天皇について鎌倉幕府を滅ぼすも、天皇に反旗を翻す 

足利尊氏は、北条氏が2度にわたる元の来襲をくいとめ、鎌倉幕府の頂点ともいえる時代の嘉元3年(1305)に生まれた。幼名は高氏であった。
尊氏が登場してきた時代は、武士が朝廷に対抗する力をもつ、いわば二重権力の時代になっていた。皇族を将軍として形の上ではトップに据え、実権は北条氏の執権が握る。この二重構造はその後、近世に至るまで形式は変っても本質的には引継がれることになった。

尊氏は鎌倉幕府の有力な後家人として頭角を現していった。
尊氏は生涯、二度の大きな謀反を起こした。最初の謀反は、自分が仕えていた北条氏の鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇について鎌倉幕府を滅ぼしときである。33歳の時に征夷大将軍となって室町幕府を開き、その初代将軍におさまった。

2度目は後醍醐天皇に反旗をひるがえし、京都から追い落としたときで、後醍醐天皇に対抗するため自分の意に沿う北朝の光明天皇を擁立した。こうして、2人の天皇が存立する南北朝という時代を迎えたが、分裂を引き起こした張本人が尊氏だった。
尊氏は後世、悪者にされたが、それは天皇に反旗を翻したことよりも、数多くの裏切りによるのかもしれない。尊氏という名前は、鎌倉幕府を倒した功績によって後醍醐天皇からもらったものであることを考えると、歴史とは何とも皮肉なものである。

弟、直義をも殺害し、権力を掌握

裏切りだけではない、尊氏は弟の直義をも殺害している。表向きは病死となっているが、毒殺だったといわれている。尊氏の生きた戦国時代は、朝廷による荘園支配が武士の台頭によって崩壊しつつある時代であり、権威と秩序に定まったものは何もなかった、頼むは自分の器量、実力だけで、朝廷のみかけの力は当てにならない。どれだけの勢力が自分の側につくかが勝負であり、そのためには謀反を起こしたり肉親を殺したりすることも必要だったのである。
天皇と争ったけれど、歴史を遡ると、鎌倉幕府の時代にすでに武士が朝廷と武力で争い、すでに武士が日本を実質的には支配していた。尊氏は明治維新後の歴史では、尊氏は天皇に反抗した逆賊のように扱われることになったが、武士が実力をつけた時代の偉大な成功者だったにすぎない。
しかし、尊氏は決して順調に権力を握ったのではなかった。何度か死にそうになっており、尊氏が助かったのはまったくの偶然に近かったこともあった。
尊氏は後醍醐天皇を追って京都に入ったが、奥州から南下してきた北畠顕家に敗れ、あっけなく京都を追出された。兵庫に移動し、再び京を奪回しようとしたが、今度は伝説的な兵法家楠木正成と鎌倉幕府を倒した最大の功労者新田義貞の連合軍に破れ、九州にまで逃げた。そこでは後醍醐天皇につく菊池氏が尊氏を待ち受けており、尊氏軍は兵士の数で圧倒的に劣り、あわやこれまでかという窮地に陥ったにもかかわらず奇跡的な勝利を収めた。
尊氏はこのように戦死しても当然という場面を幾度か経験している。

新田義貞、北畠顕家らの有力武将が戦死し、次いで後醍醐天皇が没したのち、今度は幕府内部の対立が表面化した。幕府の実態は尊氏とその弟忠義の二頭政治で、正平5年(1350)には忠義が挙兵し、擾乱となった。尊氏は翌年、忠義の軍勢を下し、忠義を幽閉した。直義は正平7年/文和元年(1352)2月に急死亡したが、尊氏に毒殺されたという説もある。

毒虫という、とんだ伏兵に敗れた尊氏

戦国の習いとはいえ、尊氏ほど波乱万丈の人生を送った武将はそうはいないだろう。これほどの人間であるから、尊氏はさぞかし劇的な最後を遂げたかと思うが、その死はあっけなく、悪性の腫れものができたのがもとで正平13年/延文3年(1358)に死亡した。毒虫に刺された傷が悪化したともいわれている。54歳であった。
当時の寿命の基準からすれば決して短命ではなかった。いわゆる感染症や癌などの病気で死んだのではなく、いくたびかの苦境を生き延びていることから考えると尊氏はもともと頑健な人だったようである。
虫に刺されたことが直接の原因で死ぬことは、蜂に刺された場合などその毒素によるショック死(アナフラキシーショック死)などが稀にある。しかし、尊氏の場合は虫に刺された傷口が細菌感染を起こして化膿し、最後は細菌が全身にまわる敗血症のような病気になったと考えられる。今ならば特効薬である抗生物質があるから、死亡することはほとんどない。希代の英雄である尊氏にも、とんだ伏兵がいたものである。

もし急逝しなければ、南北統一の歴史はどう変わっていたか

尊氏の宿敵である後醍醐天皇は、尊氏の死より19年前の1339年、逃げ落ちた吉野の地において52歳で病死し、後村上天皇が南朝の天皇を継いだ。
後醍醐天皇は朝敵である北朝や足利を討つよう遺言を残したと伝えられている。
日本中の貴族と武士が北朝と南朝に分かれて争った大混乱は、後醍醐天皇や足利尊氏が死んでも収まらなかった。南朝と北朝が合一されるのは、尊氏の死後34年もたった1373年のことだった。
もし、尊氏が毒虫に刺されて死ななかったら、その後の南朝と北朝の統一の歴史はどうなっていただろう。尊氏が生きている間は、南朝の抵抗がなくなることはなかったから、遅れたとも考えられる。しかし、逆に尊氏は柔軟な思考をする戦略家だったことを思うと、尊氏が南朝に譲歩することで意外に早く統一が実現したとも考えられる。
尊氏の死がどのような影響を後世に与えたかを論じることはむつかしい。尊氏の死によっても、武士の力は増す一方であったから、いずれにしても日本の支配権が幕府から朝廷の手に容易には渡らなかったことだけは間違いないだろう。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。