病気と歴史 - 老いて金銭と性に強欲だった、俳諧師小林一茶
25歳で俳諧師となり、関西四国へ俳諧修行
小林一茶は宝暦13年(1763)、信濃北部の柏原宿の貧農の長男として生まれた。3歳で母を失い、8歳のときから継母に育てられたが折り合いが悪かった。このため、内向的で孤独な性格が養われたといわれる。〈我と来て遊べや親のない雀〉は、そのころを追想した吟である。
継母に馴染めず、15歳のときに江戸に奉公に出された。25歳のころから俳人として身を立てるようになった。寛政4年(1792)春、江戸を立って関西西国筋へ俳諧修行に出かけた。
7年に及ぶ俳諧行脚を終えて江戸に戻った一茶は、洒脱な作風で俳壇に知られるに至った。しかし、俳句で生活していくのは容易ではなかった。資産家、夏目成美の庇護を受け、また房総筋の知人の家に寄宿を重ねる生活だった。
50歳になって故郷に定住
スポンサーともいうべき人を頼り、その家に逗留し、句作の会を開き、句を批評する。それには、世間師ともいうべき世渡りの才能が必要だった。一茶の憧れは松尾芭蕉で、芭蕉のように漂白への思いもあった。しかし、齢を重ねるにつれ、そういう生き方、生活は辛かった。
一茶は、享和元年(1801)に久しぶりに帰郷し、父の死にあい、その後、異母弟と遺産分与を巡って争うことになった。
家を実質上継いだのは弟であり、兄が遺産を半分寄越せと主張するのだが、弟としては当然承服できない。10年余を経た文化10年(1813)年にようやく和解。一茶は、亡父の遺言を盾に遺産を半分取ることに成功し、故郷へ定住した。50歳になっていた。
若い嫁をもらい、金銭、性欲にエゴと強欲の化身だった
文化11年(1814)、52歳で28歳の妻、きくを娶り、3男1女をもうけたが、いずれも幼少で亡くなった。きくも37歳で他界。二番目の妻、雪を迎えるも、半年で離婚。さらに3番目の妻、やをを娶った。
この間、田畑を耕しながら句作をする日々で、長女の死への思いを綴った『おらが春』は彼の最高傑作として名高い。
「故郷へ帰ってからの一茶は、金銭的にも性欲にも、エゴイズムと強欲の化身であった」と山田風太郎氏は『人間臨終図鑑Ⅲ』(徳間文庫)で書いている。
一茶は日記に記録を残している。文化13年(1831)1月の日記に、「15(日)晴。三交」。8月8日には、「晴。夕方一雨。夜五交合」といった具合で、50歳過ぎの男にしてはまことにすさまじい。
50歳を過ぎて旺盛な性生活が命を縮めたのか
一茶は、文政10年(1828)、3度目の脳卒中の発作を起こし、65歳で急死した。
篠田達明氏の『日本史有名人の臨終図鑑』(新人物往来社)は、有名人の病気に関してカルテを作成している。一茶も取り上げていて、「留意点及び今後の方針」として次のように示している。
「老年期になって発症した性欲亢進症はきわめて治療困難である。ましてや本患者のように若い妻を3人もつぎつぎに迎えた場合、女性に精を吸い尽くされて腎虚となり、早々にあの世にゆくほかない。医師もお手上げのケースである」
一茶は性欲旺盛のために命を縮めたのだろうか。一茶が他界したとき、妻のやをは身ごもっており、翌年の4月、娘、たやを産んだ。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。