病気と歴史 - ドイツ人医師・ベルツに日本初のがん告知を受けた、明治の元勲・岩倉具視

病気と歴史 - ドイツ人医師・ベルツに日本初のがん告知を受けた、明治の元勲・岩倉具視
幕末から明治政府へ、表舞台で、また裏で重要な役割を果たす

岩倉具視は幕末・明治初期の公卿出身の政治家。文政8年(1825)、権中納言堀川康親の子として生まれ、13歳で岩倉家の養子となった。29歳で孝明天皇の侍従に出世すると、朝廷においてすぐれた指導力を発揮。孝明天皇を動かして朝廷と幕府による公武合体論を推進し、その手段として皇女和宮と徳川家茂の結婚を実現させた。

ところが、和宮降嫁を推進されたことが尊攘派に糾弾され、孝明天皇から辞官落飾を命じられ洛北岩倉村に蟄居。しかし、慶応3年(1866)に孝明天皇が崩御すると、それを機に政界に返り咲いた。
そして、尊皇倒幕派と結び、王政復古のクーデターを成功させる。江戸から明治へ、複雑な政情のもと、岩倉公は時に裏に回り、またときには表舞台で堂々と、常に重要な役割を果たした。

憲法制定に尽力するも、病に斃れる

明治新政府で参与、右大臣などの要職を歴任し、明治4年(1871)には不平等条約解消のために全権大使として欧米に渡った。帰国後は征韓論に反対し、これを制圧。自由民権運動を抑え天皇制を擁護するために欽定憲法制定の基本方針を定めた。
明治15年には、伊藤博文、井上馨らを憲法研究のために欧米へ派遣した。

ところが岩倉は、大日本帝国憲法の制定をその目で見ることはできなかった。
明治16年(1883)初め頃には咽頭がんの症状がはっきりと出始めていた。

それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で1人の貴公子然たる青年にあった。あとでわかったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた。「お伺いいたしますが、先生、ひどい嚥下困難を呈する場合は、危険な兆候でしょうか?」──その方はお幾つです?」──「52歳ですが」──「すると、まあただ事ではありませんね」──「実は、わたしの父なのですが」─青年がさらになお2、3の症状を述べたとき、食道癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。

以上は、『ベルツの日記』(岩波文庫)の「明治16年 岩倉公の死」の冒頭部分である。なお、「52歳」はベルツの聞き違えで、ほんとうは58歳であった。
のちに日本近代医学の父といわれるようになったドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは当時、勅命により東京大学医学部教授をしていた。
日記は次のように続いている。

それから半年あまり、ベルツは何も耳にしなかったが、ある日、宮内省と文部省の役人から、至急面談したいとの知らせを受けた。日本のもっとも重要な政治家の岩倉右大臣を京都に見舞い、東京へ連れ帰ってほしいとの依頼だった。それは、実は天皇みずからの依頼だった。
面会した岩倉公はひどく衰弱し、かろうじて少量の栄養をとり得るに過ぎなかった。6月末に東京へ戻ったのだが、戻る前、岩倉公はベルツに、包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。
以下は、岩倉公とベルツのやりとりである。

「絶望です」「ありがとう」

「お気の毒ですが、ご容体は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は侯爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがあることを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるような方でないことも承知しているからです」

ベルツの言葉を聞いて、岩倉具視はこう答える。
「ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。──ところで、今1つあなたにお願いがある。ご存じの通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、できれば、すぐさま伊藤を召還し、次の汽船に乗り込むよう指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わしをもたせねばならないのだが、それができるでしょうね?」そして広は低い声でつけ加えた。「これは、決して自分一身の事がらではないのだ」と。
「全力を尽くしましょう」

伊藤が帰国するまで命をもたせられるかどうか。その問いに直接的に答えていない。日記はさらに、つぎのように続いている。

だが、もうそれは不可能だった。病勢悪化の兆候は見るまに増大した。公はほとんど、飢え衰えるがままに任された形だった。永い、不安のいく週間がすぎた。その時わたしは、臨終が間近なことを知った。わたしは公に、最後の時間が迫ったことを告げた。すると公は、井上参議を呼び寄せるように命じた。公は参議に、声がかれているから、側近くひざまずくように促した。その間わたしは反対側に、公から数歩はなれてうずくまり、いつでも注射のできる用意をしていた。そして終始、寸刻を死と争いながら、公は信頼する参議にその遺言を一語一語、耳うちし、ささやき、あえぎあえぎ伝えるのであった。

そして、次のように締めくくっている。

こうして、疑いもなく維新日本の最も重要な人物の一人であった岩倉公は死んだ。鋭くて線の強いその顔立ちにもはっきり現れていた通り、公の全身はただこれ鉄の意志であった。

なすべき仕事がある人は、死を知っても怖れ取り乱すようなことはない

病理史学者の立川昭二氏は、『いのちの文化史』(新潮選書)で岩倉公とベルツのこのやりとりを取り上げ、「これはおそらく近代日本最初の余命告知と思われる」と述べている。そして、岩倉の返答を次のように絶賛している。

医師に「絶望です」と告げられた岩倉具視は即座に「ありがとう」と答えている。これはすごいというほかない。私たちは、医師から「あなたは絶望です」と言われたら、目の前が真っ暗になり、しばらく口もきけない。「ありがとう」などとはとても言えない。
岩倉具視は当時の日本の最高の権力者である。その彼が外国人医師から死の宣告を受け、その医師に向かって「ありがとう」と感謝のことばを発しているのである。

そして、立川氏は、「なぜ彼はこう言えたのか?」と自問し次のように答えている。

それは彼のことば、つまり自分のいのちを伊藤が帰国するまでもたせたいが、それは「自分一身の事がらではないのだ」ということばに、その答えがある。
自分一身のことを超えた目的、自分のなすべき仕事がある人、そのような人は余命を知りたいし、知っても死を怖れ取り乱すようなことはないのである。だから岩倉具視は平然と「ありがとう」と言えたのである。

明治新政府による初の国葬の礼をもって葬られた

これは近代において最初の余命告知と思われると、立川氏が書いている。ベルツはがん告知はしていないが、岩倉具視にがんであることを知らせている。当時、「がん告知」「余命告知」などの言葉はなかった。
現代では、医師はがん告知、余命告知をするのは当然の義務と思っているようであるし、患者の側には告知されるのは当然の権利とおもっているむきがある。それがよいことかどうなのか。

岩倉公の病床へは明治天皇も見舞いに行かれている。岩倉公は明治16年(1883)7月20日に57歳で逝去。日本政府による初めての国葬の礼をもって葬られた。
ベルツとのやりとりからも、岩倉公は大人物だと思われる。欧米を視察した岩倉使節団が明治日本の近代化に極めて大きな影響を与えた。
一方で、当時から、孝明天皇暗殺の首謀者との噂が絶えず、それは現代まで続いている。

 

文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。