東 雑記帳 - 晩ごはん、よその家に借りた茶粥
昔は、醤油や塩、砂糖などが切れている、ご近所さんに「ちょっと醤油貸してくれる」などといって寸借したという。頼まれたほうも、「あいよ」と二つ返事で応じたらしい。ご近所さんのよしみである。昭和三十年頃までの映画やドラマには、こういう場面が見られることがある。
五歳か六歳の頃だっただろうか。そうだとする、昭和二十九年または三十年。ある日、晩ごはんに少し足りなくなったのだろう、斜め前の家に茶粥を茶碗に一杯だけ借りたことがあった。ひいじいさん(母方の曾祖父)の妹の家で、その人、ぼくからみたら大叔母は当時健在だった。
なぜ、足りなかったか、理由はわからない。その頃、米が不足していたわけではなかったと思う。
分けてもらった茶粥は炊き立てではなかったようで、炊き具合も自分の家と少し違うように思ったように記憶している。
その頃、ぼくの家は祖父母と母、姉の五人暮らしで、父は仕事のために下関に単身暮らしていた。
朝は必ず茶粥だったが、昼や夜は白いごはんだったのか。夜も茶粥の時があったのか。記憶がはっきりしない。
ぼくが生まれた瀬戸内海の島の茶粥は、豆茶と米を煮てつくるもので、豆茶の香りが香ばしい。
秋にサツマイモが獲れるころになると、サツマイモ入りの茶粥となった。子供は甘いサツマイモが好きなもので、ぼくはことのほか好きだった。
茶粥にサツマイモが入っていると、「あっ、今日のおかいさんはサツマイモが入ってる」と喜んだ。
茶粥は、「お」と「さん」を付けて「おかゆさん」。その「ゆ」が変化して「おかいさん」と呼んでいた。あるいは、「おかい」と。
下関に引っ越してからは、茶粥が食卓に上ることはまったくなかった。普通の炊いたごはんになった。
両親が亡くなったのち、ごくたまにではあるが、茶粥をつくって食べることがあるが、やはりサツマイモを入れたくなる。今は、豆茶などの茶を入れる使い捨ての袋をネットで売っており、それを入手し使っている。豆茶は徳島産のものをネットで購入している。
それはともかく、あのとき借りた茶粥は、その後、返したのだろうか。
借りた茶粥は翌日自分の家で炊いたのを返すなどの仕来りがあったのかどうか、今に至るまで知らないままである。
文:東/茂由 ライター
1949年、山口県生まれ。早稲田大学教育学部卒。現代医学から東洋医学まで幅広い知識と情報力で医療の諸相を追求し、医療・健康誌、ビジネス誌などで精力的に取材・執筆。心と体、ライフスタイルや環境を含めて、健康と生き方をトータルバランスで多面的に捉えるその視点に注目が集まる。